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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

花の見ごろはいつごろですか?

 たとえば、ケア・マネージャーと折り合いがつかないとか、上司とそりが合わないとか、他人からしてみればどうでもいいことで、こころは挫けてしまうものなのである。

「昼バラ園にて」というすてきなお題を折角いただいたのに、なかなか手につかないのは、毎日が憂鬱でゆううつでたまらないからである。そんなときに、なにかを発信したり言及したりしようとすると、途方もない失敗をしでかすようなし、キーを打つ手が止まってしまう。

 モチーフは無数にあり、展開も、帰結する道もある程度あたまのなかで描けている。しかしいざ着手しようとすると、自分の内側に居るなにものかが阻むのだ。へっ、ファンタジーの世界に逃げこむんじゃないよと、もう一人の自分がほくそ笑んでいやがる。

 夜の静寂の、たまらなく寂しさを覚える時刻に、素直になれない自分を疎ましく感じている。じっさい、ぼくは昼休みの時間に、弁当をかっ食らったら直ぐにバックヤードをとび出し、時間の許すかぎりバラを撮影し、Twitterに投稿している。だが、賢明なしょくんはとっくにお見通しであろう。その内実がからっぽかつ惰性であることに。春、撮影していたときの新鮮な感動は、もはや湧いていないことを。それでもバラの花を美しいと感じてくださるのなら、それはバラそのものの魅力であり、断じて、ぼくの視点ではない。

《しかし、バラの「見ごろ」とはなんだろう?》

 そうした疑いが、絶えず意識の根底にあって、それが邪心なく被写体を捉えたいという希いを、妨げているのである。

 

 ぼくの疑問とは、他愛のないものだ。四季咲きのバラの花に、剪定などを施し、よく咲く期間を人為的に設け、いまが盛りの季節ですと、喧伝することにたいする、疾しさからきている。

 お客さまはおっしゃる。見ごろはいつですか? いちばんきれいな時期はいつですか? たくさん咲いていますか? 咲いてないとつまらないものね。咲いてなきゃ、わざわざ来た甲斐がないものね。

 台風が上陸する前日、こんなお客さんがいた。イベントはぜんぶ中止になり、花苗の販売も早々に店をたたんだ。しかし閉園はしていない。バラを観ることは、できる。そう説明すると、お客さまはがっかりした様子で、それじゃ帰ろうかしらとおっしゃった。

 そして帰りしな、連れだった人に、こっそり耳打ちしていた。

「どうせバラも咲いてないわよ」

 ぼくは、バラは咲いてますよと、思わず声をあげそうになった。そして、園の中に入って観もしないうちから咲いてないと結論づけるだなんて、あんまりじゃないかと憤った。

 それは無駄足を踏んだことへの、徒労を納得させるための方便というか、いわば「合理化」だったのだろう。だが、そういった些細なできごとが、ごく僅かな誤差が、自分の平衡感覚を、おおいに狂わせる。ぼくは苛立っていた。花の見ごろはいつだとの、満開になっているかとの問い合わせに辟易していた。接客業に携わる者として失格である。もちろん態度にはおくびにも出さない。が、全身からとげとげしさの気を発散しているように思えてならなかった。

「思ったよりもたくさん咲いていなかったね」

「今年のバラは柄も色もいまひとつだったね」

 そういった感想一つひとつを聴くたびに、ぼくは、自分が丹精こめてバラを育成していたわけでもないくせに、自分のことを貶められているような、忸怩たる思いを抱くのだった。

 そして次第に、ぼくは「見ごろ」ということばに、ものすごく抵抗を感じるようになった。

 

 バラがいちばん美しくみえる「咲きごろ」とは、いったいいつを指すのだろう。四分咲きとか八分咲きとかいうけれど、その尺度は観る側の主観によっていかようにも変わる。こちらが満開だと思っていても、そちらはまだつぼみだと感ずるかもしれないし、あるいはまた、盛りを過ぎていると感ずるかもしれない。開花にかんする基準めいたものが、おそらくあるのだろうし、見かたや評価についても、厳密な法則があるのかもしれない。けれどもそんなことは、観光客にとってはあまり意味をなさない。なぜなら、花の見ごろを決定するのは、観る側の主観によるものであるから。

「あまりきれいじゃなかったわ、天候のせいでしょうけど、残念ね」

 お上品なことばばかりをピックアップしているけれども、じっさいにはもっと辛辣な意見もある。悪態を吐いていく御仁もいる。入園料をとるからには、相応の見返りがあって然るべきだという。金を払ったんだから、それなりの見どころを用意せよという。この程度で金をとるのか、見損なったよ、金を返せという方までいる。いや、誤解してほしくないのだが、その程度のさもしさにはずいぶん慣れてしまった。そうではない、ぼくがめげるのは、なんの衒いもなく、見どころはなんですか、見ごろはいつですかという、邪気のない、他愛のない問いにたいしてなのだ。

(だけど例外もある。先日フィリピンの留学生のグループが来ていたが、そのなかの一人が、こんなふうに言ってきた。

「きれいなバラの花、たくさんたくさん咲いてますか?」

〈1時間後〉

「きれいなバラの花、ホントにたくさん咲いてました! とってもとってもステキでした」

 わかるかなあ、この感覚。ここまで含みなく言われたら、まっすぐに伝わるんだよ。なにもその女のこが、かわいかったからだけの理由じゃない。

 日本人のお客さまの感想は、無邪気なようでいて、どこか含みがあるように思えるんだ、ぼくには。)

 そういった迷いを抱えながら、ぼくはバラのアップを枠に収める。風よ花を揺らさないで、などとメルヘンチックに呟きながら、ピントが合った瞬間にシャッターを押し、名前を記すやそのままエイヤッと送信してしまう。あとで確かめてみると、偶然が作用してか、存外悪くないものもある。だけど、ときおり、露悪的な部分が表れていて、当惑することもままある。

 ルシファーという品種がある。青紫の半剣弁と、鋭い名前にひかれ、ぜひとも紹介したかったが、一輪だけ残っていた花びらは縁の部分が変色しており、見るからに痛々しかった。だからぼくは、グッとレンズを近づけ、花芯の部分だけを、クローズアップして撮った。陽の光の加減で、その場ではよくわからなかったが、あとでパソコンの場面でみると、手がぶれたからか風が吹いたからかピンボケになっており、結果すさまじい形相をした花の貌は、天使の微笑みというよりも悪魔の嘲笑いに近かった。これでは品種の魅力を損ないかねないと、すぐさま画像を削除したのだが、しかしそのピンボケの写真にこそ、ぼくの本性がうかがい知れるのではないかとも思って、ルシファーの削除を、のちに悔やんでもみた。

 そうだ、なぜ、盛りの花ばかりを撮らなくちゃならない? 衰えた容姿のバラにも、また違った魅力があるのに。おまえはなぜ、整った顔かたちの花ばかりを選ぶ? その木のなかで、とりわけ目立つものばかりを選ぶ? 見映えのする花ばかりを、おまえは選りすぐっているじゃないか、その無意識な選択こそが、おまえの下劣な素性ではないのか?

 ぼくは自問する。自問しながらシャッターを切る。花の盛りの一瞬をとらえ、それがさもすべてであるかのように印象づけようとする。だが、それでいいのか。美味しいトコ撮りばかりしていていいのか。バラばかりを特権的にあつかうことに、ためらいはないのか。バラが至上の美であるような、世間一般の常識をただなぞっているだけではないか。そしてなにより、ぼくはバラが好きか? そうじゃないだろうと、もう一方のぼくがぼくをせせら笑う。おまえさんが好きなのは、バラではなく、バラを撮っている自分自身だろ! と。

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ノックアウト(フロリバンダ 作出国/仏 00年)

 

 見ごろは過ぎたとひとは言う。今年の秋のはもう見納めだねと。誰もがみとめる地点までたどり着いたら、花の運命は散るばかりである。けれどもぼくは、散り際の花こそがいとおしい。散ってしまったあとの、うす汚れた花びらの、風に舞い乱れるさまにこそ、いまは興を魅かれる。おおくの賛同は得られないだろうが、ぼくはこんど、ピンボケでもいいから、散る瞬間を捉えてみようかと思いめぐらす。風が揺する花の動きを。揺れるな揺らすなと思わずに。ああ、揺れたってかまうものか。揺れよ散らばれバラの花。それこそが、見どころだ。