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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『歌の塔』第一部 第4章「霊感のみずうみ」より抜粋

 
  丘のてっぺんから進んできた方向に視線を移すと、こちらは窪地になっており、窪みの底にはこぢんまりした湖があった。沼なのか池なのか、正しい呼び方は知らないが、直径百メートルにも満たないほどの、地図にも載らないような小さく丸い湖である。
 わたしはほとりまで行ってみようと決心し、砂礫の斜面を滑るように降りていった。
 湖畔が近づくにつれ、濃いガスが立ち込めはじめた。
 視界を遮られたわたしは急に不安になったが、正体を知って胸を撫で下ろした。濃霧と見紛うガスは絶えず噴き上がる水蒸気だった。硫黄の強烈な臭いが鼻を突くので、これは温泉なのだと容易に想像がつく。岩陰の隙間からしゅうしゅうと白煙が立ち上がり、微風に運ばれ、湖面を舐めるように漂ってゆく。湖水は水色というよりも緑ががった乳白色で、周囲を取り囲む岩肌の茶白色とコントラストをなしている。ちょうど「湯釜」の子分といったところだ。湖の縁には白骨のような枯木が何本か突っ立っている。漂う煙は枝先に引っ掛かると微妙に方向を換え、対岸のほうへスーッと棚引いていった。
 わたしは殺風景に心奪われ、ほとりの近くに腰を下ろし、鏡面のように動かない湖面をしばらくのあいだ眺めていた。それから背負ってきたギターケースを降ろし、マーチンD‐45を取り出して慎重に調弦し、目の前の湖に向かって思い描いたイメージを弾きはじめた。
 すると旋律が奔流のように滔々と流れ出した。レコーディングで得た自由自在の感覚が甦り、わたしは夢中になって弾き進んだ。このいったん開いた回路を閉じたくなかった。そしてここに来た理由をようやく了解した。わたしはインスピレーションを授かりに来たのだ。聴こえるすべてを音楽に変容する術を会得しに来たのだ。音のパースペクティヴは驚くほど広大で、映るビジョンは細部に至るまで明瞭だった。わたしの指から、手から腕から、身体の奥から音楽が泉のように溢れ出てくるようだった。
 そう、ここは霊感の湖。わたしはまさに今ここで何かを手に入れようとしている。
 
 納得ゆくまでアコースティックギターをかなで、指板から指を離した。ふとあたりを見渡せば、すでに日はとっぷりと暮れている。コバルト色の空を仰ぎ見ると黒い影が二、三羽飛び交っている。割れた尾から判断して湖畔付近に営巣するツバメのようだ。イワツバメかもしれないし、アマツバメかもしれない。鳥の行方を追うと、東の空に矮小な月が白々しく浮かんでいる。夜の帳の降りる瞬間だった。わたしはマーチンをケースに収め、立ち上がって尻についた砂を叩いた。薄暮の間に丘を降りないと山荘に戻れなくなりそうだ。立ち去るには名残惜しい場所だが、早々に帰ろうと、湖から踵を返そうとした。
 そのときわたしの目は湖へ向かう女の姿を捉えた。ローサだった。
 
 ローサは最初に会ったときと同じ、白のロングドレスを身にまとっていた。裸足になるとしばらく波打ち際に戯れていたが、やがて湖の中心に向かってしずしずと進んでいった。膝から腿へ、腿から腰へと深さを増すにつれ、わたしは不穏な胸騒ぎがした。
 入水自殺の四文字が頭に浮かんだのだ。
 まさかと思いつつもわたしは焦った。自殺するいわれのありやなしやはこの際問題ではない。波もなく静かとはいえ、急に深みにはまって溺れるかもしれない。そのうえ湖水はおそらく酸性質、小魚も棲めないほど酸化しているはずだ。大量に飲んだらそれこそ命に係わりかねない。躊躇している暇はなかった。わたしは湖水に向かって走り出した。
「ローサ!」
 わたしが駆け寄るのを認めたローサはかすかに微笑んだ。いや微笑んだように見えた。顔色は蒼ざめ、さも月の化身のようである。じゃぶじゃぶと腰まで浸かりながらわたしが湖水を攪拌すると、ローサはやや困った表情を浮かべて、身体を横に滑らし、魚のように逃げてゆく。ローサ待ってくれ、オレは泳ぎが得意じゃないと、情けない科白を喚きながら、わたしは水面を掻き分けて歩いた。しかし湖底はぬるぬるとして足場は不安、やがて案の定、足元を掬われた。焦ったわたしは手足をばたつかせた 。鼻に口に、生温い湖水がドッと侵入してくる。無様な格好を不憫に思ったのか、ローサは優雅に平泳ぎをし、わたしの懐へと潜り込んだ。二の腕を抱きかかえて、しょうがないひとねと苦笑した。
「追ってくることないのに。あたし気持ちよく泳いでいたんだから」
「オレはーー」キミが死ぬかと思ったんだ。
「お莫迦さん」ローサはわたしの首っ玉に抱きついてきた。少しだけ脇の臭いがした。
「あたしがそんなことをすると思って?」
「だけどさっきは、ローサに非道いことをした」
 ローサはわたしの顔をまじまじと見た。彼女の瞳は月の光を映しだし、青白く光った。
「へえ。おかしなことをいうわね。そんなこと気にしてるんだ」
「オレはローサを欺いた。キミが骨身を削って創りあげた歌の塔を粉々に……」
 ローサはわたしの口を塞いだ。
 それは今までに体験したことのないような濃厚な口づけだった。ローサはわたしの頭を抱え込むようにして激しいキスを貪った。弾性のある厚い唇を押しつけ、強く吸いつき、わたしの未熟な口に舌をねじ込み、ねちっこく絡みついた。ローサの洩らした吐息からは薄荷煙草の匂いがし、挿し入れられた舌からは酸度の高い湖水の味がした。
 情熱的な接吻に応え、わたしは背中に回した腕をおずおずと胸元に回し、豊かな乳房を掌で包み、指の腹で曲線を描きながらドレスの胸襟に手を差し伸べた。谷間を弄る指先に硬いものが触れ、手探りで形を確かめると、それはクロスのネックレスだった。
 柔肌とは対照的なひんやりとした銀の感触に畏れをなし、愛撫をいったん中断した。するとローサはわたしから泳いで離れ、少しだけ哀しげな表情を浮かべると、静かに首を横に振った。
「どうして」
 聞かん気の利かない子どものように、性急にむさぼりつくが、すぐにあしらわれた。
「音楽家どうしの睦みあいは音楽でやんなきゃ」
 と、するりと身を翻すと、ふたたび水面に身を滑らし、仰向けになって泳ぎはじめた。
「さっき昇が弾いていたあの曲ね、あたし好きだな」
 ローサは湖水に身体を浮かべ、手足を器用にそよがせながら顔を水面から突き出した。
「忘れちゃう前に今夜のうちに完成させようよ」
 仰いだ空の中程に月がぽっかりと浮かんでいる。銀色の光線は細波に乱反射し、水面を煌々と輝かせ、眩い光を反映したローサの恍惚を妖しく浮かび上がらせている。わたしは湖水に胸まで浸かり、ほとぼりを冷ましながら、目の前に展開する幻想的な光景を呆然と眺めていた。表層とは違う湖底に潜む暗流の、不気味な流れを足下に感じ取りながら。
 
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 モデルとなった「湯釜」。草津白根山の火口湖である。
 
 修辞だらけで、圧縮されすぎの硬直した文章だ。「手つきが気に食わない」と罵りたくなる気持ちもわかるし、「文学はお話とは違うんだから」とたしなめたくもなる。ぼくは「マンガみたい」なお話を文学的に装飾しようとしていたのかもしれない。今回、『歌の塔』のいち場面を書き写しながら、その無邪気なたくらみにげんなりし、好きな場面であるにもかかわらず、もうちょっとどうにかならんものかなと、あちこち手を入れたい誘惑にかられた。
 しかし原文(ママ)である。
 この小説は原稿用紙換算枚数300枚。2005年10月13日に脱稿している。