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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

自惚れ(うぬぼれ)

 

 
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ぼくの七つ道具。JPCのタンブリン、LPのサンバホイッスル
トライアングルとビーターのセット、フィンガーシンバル、クラベス、
カスタネット、ビック・ファースのアレックス・アクーニャモデル。
チャイお邪魔。 

 

 先生さまと奉られた時期がぼくにもあった。地元の音楽短期大学を卒業してから浜松の楽器メーカーに就職したのだが、配置されてから一週間後にぼくは「講師」という肩書を背負って全国をくまなく回ることになった。

 入社してすぐのゴールデンウィークのことだった。お祭りで賑わう市中に設えられたステージで、ぼくはいきなりドラムを任された。それまでセットなど叩いたことはない。正直にそう告げると「きみは打楽器科卒なんだろ? だったら叩けるよな」と営業の方から言われて、楽譜をにらみながら「浜松音頭」だの「無錫旅情」だのを演奏する羽目になった。それが人前でドラムを叩いたきっかけである。

 販売促進課の講師は、現場をたくさん回って人前で演奏して度胸をつけろという決まりがあった。ぼくは二種類の鍵盤ハーモニカをバッグにつめて全国の小学校をまわった。1日平均で5校は訪問した。行った先々で小学1~2年生を相手に鍵盤ハーモニカの使い方を指導し、最後に模範演奏を何曲か演奏する。クライマックスは決まってルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」 1954 HITS ARCHIVE: Bugler's Holiday - Leroy Anderson (original version) - YouTube だった。ダブルタンギングを駆使してむちゃくちゃテンポアップして演奏した。低学年のちびっこたちはたいてい目を丸くして驚いた。立ち上がって踊りだす子もいた。子どもたちの喜ぶさまを見てぼくも嬉しかった。体力的にはキツかったがやりがいのある仕事だと思った。

 ただし人前で演奏するからには「巧い、さすがだ」と相手を一発で納得させなければならない。ぼくは休日返上で鍵盤ハーモニカを特訓した。それからデモンストレーションのためにキーボードも練習した。よく知られたナンバー、クラシック名曲のさわりやら流行のアニメ主題歌まで、音色の特長を活かせるような演奏ができるよう自分なりにレパートリーを考えながら増やしていった。呼ばれた先ではプロの演奏家だとみなされる。行った先で恥をかきたくなかった。だから懸命だった。

 必要に迫られたときになって人は初めて学習するものである。学生時代にこれだけ練習すればもう少しまともな打楽器奏者になれたかもしれない。ぼくの練習嫌いは有名だった。基礎練習をサボり、アナリーゼを怠り、課題曲をおさらいしない、ろくでもない音楽科の学生だった。

 しかし言わせてもらえば教えた側にもいくばくかの責任はあった。打楽器の扱いや奏法についてあまりにも本人任せだった。ぼくは楽器メーカーに勤めだしてから打楽器の持ち方、叩き方、指導法などを徹底的に研究した。そうでないと訪問先の小中学校で器楽合奏のイロハを指導できないからである。児童・生徒にどう伝えればもっとも合理的に、しかも労せず打楽器を習得させられるか? それが課せられた命題であり、また、ぼくという講師の「売り」にもなった。そのメソッドを作成する段階にいたって遅まきながらぼくは叫んだのである。

「なんだ、オンタンの先生がたは技術指導を一回もしなかったんじゃないか!」

 

「甘えるな、技術は何度もくり返して覚えるものだ。音楽は『音が苦』なんだから」

 そんなふうに平気でのたまう教授や講師が少なからずいた。かれらは楽想にかんする注文はつけるけれども具体的に「なにを・どうすればいいか」を指し示すことがなかった。そういった「手ほどき」は小中高の時代に済ませておくべきだという考えからである。それはわかるが、実際に「できてない」学生にはこんなふうに練習すればいいんだよと噛んで含めるように教えこむのも教育者として当然の仕事ではないのか?

 浜松にきていいなと感じたのは、そのフランクさである。技術習得にかんしての情報を気前よく教えあう習慣がある。これはぼくの勤務したメーカーに限らない話で、こうすればうまくいくよ、もっとラクに覚えられるよと、音楽を特別視しない、実利的な面を優先する土地柄であった。それはあべこべに「リヒテルがうち(某Y社)に来てピアノ弾いたけど、ありゃたいしたことないわ」といった身も蓋もないあけすけさにもつながるのだが。

 えっ、そうだら? そうだよぉ、そうだにぃ(浜松の三大語尾変化)。

 浜松の環境で、ぼくの音楽技術は20代の後半になってようやく向上しはじめた。楽器演奏の技術はもとより譜面書きのスキルも着実に身につけていった。オーダーは無数にあった。とにかく早く・きれいに書けることが要求された。音の響き? そんなの実地で鳴らすまでわからないさ。とにかくものすごいペースであらゆるジャンルの楽譜を解体し、再構成しつつ、譜面に起こしていった。

 前に書いたエントリ  『ぼくのTVショウ』 Turn It On Again - 鰯の独白 に登場したバンドリーダーは広島営業所の所長だったが、この人からはいろいろ教えてもらった。なにせニューブリードでラッパのトップを吹いていた人だから容赦ない。このイモ・タコとののしられながら鍛えてもらった。記譜にもウルサかったなあ。音符の書き方、旗の長さ、規則性にビッグバンド仕込みのこだわりがあった。

「なあ、おまえさんのスコアからは、まるで音楽が聴こえてこないんだよ。パッと見てフレーズが読み取れないような譜面を、楽譜とは呼べないんだ。見ろ、4パートがてんでバラバラだろ? これじゃプレーヤーが、今、自分の演奏しているパートが、どのように機能しているか、が分からんじゃないか。楽譜ってぇのはな、音楽を視覚化させてナンボのもんなんだ。まず、そのダンゴみたいな音符の書き方、ヤメろ」

「わかりましたよ、でもTさんも、楽譜のタイトルにヘタなダジャレ書くのは止してくださいよ。『パリの殴り合い(めぐり逢い)』だの、『ノミイク(ドミニク)』だの……」

「なにをォ? てめえ、このセンスもわからないのか、イモ助!」

   などと喚きあいながら一晩かけてぜんぶで60曲のスコアをやっつけたことがありましたっけ。懐かしいけれども、今じゃ写譜の技術も不要になっちまったよ、Tさん。*1

 くり返すが、音楽学校では大切なことを教えてくれなかった。トライアングルやタンブリンの持ち方や構え方、打点の場所やトレモロの仕方などの具体的な奏法を。さらにいえば美しいスコアの書き方なども。出身校を悪く言いたくはないし、自分の怠慢も大いにあるのだが、やはりもう少し実践的な指導法がなされるべきだったんじゃないかと今でも思うのである。

 

    楽譜の読み書きをマスターして楽譜の初見にも慣れてきたころ、ぼくはスタンダードナンバーを片っ端からさらっていった。いわゆる「赤本」と呼ばれる全音の「歌謡曲のすべて」はもちろんのこと「1001(センイチ)」と呼ばれるぶ厚いブツの中の曲もほとんど弾けるようになった。もちろんもっと難度の高い楽譜にも挑戦し、ジャズなどの和声構造も把握するようになった。アッパーストラクチャーコードの展開や♭5や♯11の使い道などなど(アウト・オブ・スケールにかんしては頭で理解しても指が追いつかなかったが)、つまり30歳を目前にして大学のジャズ研みたいなことをひとりでシコシコやっていたわけだ。その最大の理由は、職場のほかには殆ど知人・友人・ガールフレンドがいなかったせいである。出張のない夜などは公営団地の自室にさっさと戻って、ああでもないこうでもないと鍵盤をまさぐり続けていた。ものすごい孤独感にさいなまれたけれども、音楽を探求しているあいだは内面が充実しており不思議と空虚な感じがしなかった。

 自分が巧いと思ったことは一度もなかった。ところが、そのころからよく巧いと褒められるようになった。コツをつかんだというか、人が感心するツボのような部分を探りあてたのかもしれない。だけど、巧いといわれても決して信じてはいなかった。

 当時、静岡県島田市にあったVという楽器店によく通っていた。そこのオーナーH氏と音楽の脈が通じ合い、話していて愉快だったから休日になるたび浜松から1時間かけて島田までクルマを走らせたものだ。

 ある日ぼくはV楽器店のスツールに腰を掛け、プリンスの「The Scandalous Sex Suite」とピーター・ガブリエルの「SO」が交互にかかっているのに合わせ、試奏用のギターをたらたらと弾いていた。ところがしばらくすると高校生が数名ぼくのまわりをとりかこんでいる。ぼくは当惑してギターを弾く手を止めた。

「どうしたのいったい? なんかおれに用事あるわけ?」

「いや、ずっと弾いているところを見ていたいんです」

「なんで?」

「だって、すごく巧いじゃないですか。さっきから、そう思ってました」

 はあっ? とぼくは首をひねった。ギターはへたくそだと自認していた。ぼくとバンドやユニットを組んだやつらからはヒドいとばかり言われてきた。弾かせてもらったことなど一度もない。だから意外だった。

「おれはヘタだよ。オルタネイト・ピッキングはできないし、カーター・ファミリー・スタイルのアルペジオもできない。第一スケールが弾けない。ドレミファすら覚っ束ない。ただ、コードを弾いてただけ」

「いや、イワシさんは巧いよ」

 Hさんが横から口をはさんだ。

「どんな音楽がかかってもすぐにコードを探りあててしまうでしょ? 耳がいいのさ」

「それは職業病」

「いや」Hさんはかぶりを振った。

「それは才能」

 有頂天になったぼくはその月のうちにギブソンSGを買ってしまった。H氏のお世辞にまんまと乗せられた格好ではあったが、悪い気分ではなかった。

  それが《ひょっとしておれ、巧いのかな》と錯覚した最初の出来事だった。

 

 ぼくはギターを独力で会得した。大正琴の演奏会ではドラムやベースギターを演奏していたから、ベースギターも弾けるようになった。ピアノも弾けるわけだから4ピースバンドで使う楽器をひととおりマスターしたことになる。が、バンドは組まなかった。あまりにも仕事が忙しかったためにバンドを組む時間が取れなかった。第一その気もなかった。バンドに必要不可欠な人間関係を築くことが億劫だったからだ。その代りトラの話にはすぐ飛びついた。演歌歌手のバックバンド、ディナーショーのハコ、パーティーのBGM、ライブのお手伝い、オルガンの発表会と、お呼びが掛かればなんでもござれと気軽に引き受けていた(とうぜん無報酬だった)。✳︎3

 勤め先の業務では大正琴の発表会が多かった。平日は学校をまわり、土日には地方の市民会館や公会堂に乗りこむというパターンだった。何十組という教室のおばさまがたが弾く大正琴の演奏をサポートする役目である。とくにドラムはカウント出しをするので重要だった。

 演奏会が始まる前に、ぼくはかならず搬入口から外に出て電子メトロノームを鳴らしながら自己トレーニングをしていた。一つ打ち、二つ打ち、パラディドルと少しずつテンポアップしながら何セットもこなした。これほどルーディメントに打ちこんだことは(聞き飽きただろうけど)学生時代にもなかった。ただ、そうやってからだの中にリズムの基準をこしらえておくと、どんなに大正琴の演奏が乱れても修正をきかせることができる。ぼくの太鼓は大正琴教室の先生方に好評だった。うるさくないし合わせやすいと。そう、ぼくはテンポをことさらキープしようとはせず、逆に寄りそっていった。初心者は間をじゅうぶんに取れない場合が多い。どうしても休符が詰まって次の小節へ行きたがる。そこを意固地になって引っ張らずに自分のほうから水をさし向ける。つじつまを合わせると言ったほうが正解か。もちろん、しっかりとした演奏をするグループにはタイトでソリッドなビートを刻むよう心がけていた。

 大正琴の全国大会(そういう催しがあったのです当時は。いまはどうだか知らないが)のバックバンドも務めたし、第3回目のN H K ホールでは不肖バンドマスターも務め、そのときはピアノを弾いた。また、ニューヨークはカーネギーホールでの文化交流週間にも参加したし(そのときの顛末は 間奏曲:ブログに書くわけ - 鰯の独白 を参照)、台湾にも遠征した。とくに台北でのドラム演奏は自分でも納得のいく出来だった。台湾の大正琴の愛好者たちは教室の習い事というよりもプレーヤーという感覚で、共演している実感を味わえたし、用意してもらったDWのセットの鳴りもよかった。

 最後に大正琴の演奏会に参加したのは名古屋の大須観音の境内における奉納演奏であった。大須大正琴発祥の地とされている。そこでぼくは、野外には軽便な旧いネギのセット *2 を持ってゆき、六脚テントの下に設置して腕達者な師範たちの演奏を盛りあげるべくリラックスして叩いていた。

 ぼくは休符にハイハットでアクセントを加え、クラッシュシンバルを控え、タムロールを織り交ぜながらタメを効かしていた。ちょっとレヴォン・ヘルムみたいじゃないかとひとり合点しながら愉しんで叩いていた。すると、ひとりの中年男性が演奏中にもかかわらず声をかけてきた。

「お兄さんいい太鼓たたくね」

「そうですか、そりゃどうも」

「あんた相当な腕前だ。おれにはわかるよ」

「ありがとうございます」

《テントの下とはいえおれも出演者だぞ、ちったあ遠慮してくれよ》

 と、ぼくは少しばかりうんざりしながらライドシンバルのカップを刻んでいた。

「じつはね、いやおれもドラム叩いてたんだよ」

「へえ、そうなんですか」

「東山のほうにあったキャバレーで、あんたがいま叩いてるのとおんなじ、ネギのセットをさ」

 演奏が終わった。ぼくは声の主にふり返り、かれの容貌をまじまじと見た。かつてドラマーだったとはとうてい思えない、冴えない風体のオッサンだった。

「あんたまだまだのびるよ。いい腕している。精進しなさいよ」

 ありがとうございますとお辞儀をすると、かれは手をひらひらと振ってセットの傍から離れていった。

 たぶん、とぼくは思った。

 たぶんかれはいまの時代のドラマーのレベルを知らないんだろう、当時のままで認識が止まっているからぼく程度の演奏を巧いと褒めるのだ、と。

 

 今回ぼくは恥ずかしげもなく手前ぼめをしている。いつもネガティヴなことしかブログには書いていないから、たまには自分の「輝いていたころ」の懐かしい話を(盛らない程度に)記しておこうかと思って。

 しかし、輝いていたよ当時のイワシさんはと言われても、いま思いかえしてみるとたいしたことなかった。ただ来た球を打つだけで精いっぱいの凡庸なプレーヤーだった。在籍時の活躍ぶりは伝説になっていますと、ついこないだも現役の営業の方からお上手口を聞かされたけど、それはぼくが全盛期に会社をきれいさっぱり辞めてその後いっさい関わらなかったからだろう。虚像が、ひとり歩きしているのだ。

 あるいはバブルの残滓をそこにみるのも間違いではないだろう。好き放題に、勝手気ままに飛びまわることが可能だった時代。がむしゃらに働けば働いたぶんだけの成果があり、業績のあがった時代。その、ろうそくの最後の焔にも似た時代の光芒をぼくはたしかにこの目で見ていたのである。

 

 ぼくは、思いあがっていた。音楽のことならなんだってできると錯覚していた。自分の出来ない範囲、手を出さない領域を見極めているつもりにもなっていた。けれどもそれはたんなるうぬぼれに過ぎなかった。ぼくは企業という枠のなかに活路を見出したが、その企業が変質していったとき、同じように変わることができなかった。変化に適応することができなかったのだ。

 会社が、リストラをしはじめた。首切りの意味ではなく語義通りのリストラクチャリングを。業務見直しの過程においてぼくの在籍する販売促進課は規模の縮小を余儀なくされた。いま思えば当たり前の話だが、それまでは「じゃそろそろ東北方面に販促かけてきまーす」というだけで出張が可能であった。そういう野放図な営業を改善する方向へ会社はシフトチェンジしたのである。

 その流れに、ぼくは窮屈さを覚えた。いままでのようにのびのびと活動できないことでなにか大切なものが削ぎ落とされているような気がした。経営者に何度かそのことを訴えると、ではイワシには外国に目を向けてもらおうかと海外出張の任務を命ぜられた。

 けっきょくその業務は実を結ばぬまま、ぼくは(関西方面の所長が言っていたという)「ケツを割ってしまった」のだが、そのせいもあってか、会社を辞めるまでの期間、ぼくは自分自身の音楽活動を再開したいという奇妙な情熱にとらわれていた。

《もしかしたら、いまのおれだったら自分の考えている音楽を世に問う実力が備わっているのかもしれない……》

 そんな妄想めいた野望をひそかに抱きながら音楽制作のための準備をせっせと仕込んでいたのである。

 

 そのころ浜松ではポピュラーミュージックを盛りあげるための音楽コンテストが催されていた。ぼくは書きあげたばかりの「ローラ・クライ」という曲を録音し、コンテストに応募した。めでたく選考会に選ばれ、ぼくは本選へ出場する権利を得るためのオーディションに参加した。

 自分の他の、中部・北陸エリアから集まった10組ほどの演奏を見聞きして、ぼくは「こりゃ楽勝だ」と思った。自分より音楽的に秀でたグループは一組もいない。演奏の達者なバンドはいたし、うたの上手な娘もいたが、みな凡庸で音楽性はたいして高くないと高をくくった。

 しかしぼくは最終グループの3組に入らなかった。何故だと首をひねった。あんなのでいいのか、あんなのがいいのか? と信じられない思いだった。

 思いあまったぼくは主催者に電話をかけた。結果に納得がいかないと正直に打ち明けた。かれらに自分の音楽が劣っているとはとうてい思えないとも。電話の向こうにいる事務局の男性は困惑していた。いまはなんとも言えないが、とかれは断って電話を切った。その数時間後に向こうから電話がかかってきた。

「ぼくはほんとうは、イワシさんのがいちばんよかったと思ってる。いや、個人的な意見じゃない。審査員の先生方も同じように言っていた。音楽的なレヴェルでいえば、あなたがいちばん優れているとね」

「だったら、なぜ最終選考に選ばれなかったのでしょう?」

「それは、率直にいってあなたから『プロになりたい』という意欲が感じられなかったから。そのことにつきます。是が非でもプロになってやるという気概が見えなかった」

「しかし、音楽祭の趣旨はプロへの登竜門ではないでしょう? そういう文言は参加要項のどこにも謳われていないじゃないですか」

「だとしても、実態はそうなんだ。イワシさん、それが正しいことだとはぼくも思っちゃいない。けれども、これは音楽祭の名前を借りたオーディションなんだよ。そして、オーディションの結果というのはあらかた決まっている」

「……」

「あなたは、偉大なアマチュアですよ。ぼくはデモテープを聴いて『ローラ・クライ』って歌、ホントにいいと思った。あの歌を本選に推したのは、じつはぼくです。

 ……だからその、なんと言ったらいいのかな。こんな結果になって……」

 ぼくは、もういいですと答えた。酔っぱらっているなと思った。酒にも自分のことばにも。だが、かれよりも酔っぱらっていたのはじつはぼくだった。いや、ぼくは酒に酔っていたのではなく、おのれのうぬぼれに酔っぱらっていたのである。

 音楽ではだれにも負けないというとんでもない錯覚。その誇大妄想はいったいどこで育まれたのだろう?

 ともあれぼくは囲いから出る決心をした。会社の庇護から外れ、先生と呼ばれる立場と今までの実績を捨てて自分だけの能力でやってゆけるだろうか。それを試したい気持ちが抑えきれなくなった。こうなったらそっちの言うプロになってやろうじゃないか。自分の意志と力で道を切り拓いてみせる。カッコよく表せばそんな気持ちでいた。なあになんとかなるさという呑気な陽気さも持ちあわせていた。この過度なオポチュニティが結果あとの後悔につながるのは、毎度の常だけど。

 

 スペインはグラナダの一夜が忘れられない。グラナダはサクロモンテの丘にジプシーの住む洞窟住居があり、そのオプショナルツアーに誘われてジプシーたちの歌と踊りを観たのだった。

 ヒターノと呼ばれる、スペインジプシーの家族によるフラメンコ。まだちっちゃな女のこが指を器用に使って短前打音を打ち鳴らしていた。二枚板のカスタネットを両手に持って踵を床に打ち鳴らしながら少女はくるくる回った。もう深夜だったけど歌と踊りは長く続いた。娘の兄と思しき青年の奏でるギターのネックは反っていたし、決して褒められた演奏ではなかったが、マドリッドの街の劇場で観た洗練されたフラメンコよりか胸の奥まで響いてきた。

 興に乗ったぼくはコンパスを手拍子であおった。パルマを打つのは本来ご法度なのだが、ぼくには3と12が基調のフラメンコの構造を正確に捉えている自信があった。ヒターノの家族は寛容だったと思う。ぼくの手拍子は演奏の邪魔になったかもしれないが、かれらは終始ほほえみを絶やさず、歌い、踊り、ハレオを叫んだ。最後にぼくはやせぎすの青年ギタリストとがっちり握手を交わした。

 それは観光客相手の音楽に束の間参加した観光客の自己満足だったのかもしれない。だがぼくは本場の音楽と共演した手ごたえを感じていた。

 すると、おんぼろバスが停まっている場所へ戻る坂道の途中に、ツアーガイドの女性が駆け寄ってきて高揚した調子で耳打ちした。

「さっきはすごかった。あちらの家族もほんとうにびっくりしていたわ。

 ……ねえイワシさん、あなたっていったいナニモノ?」

 ツアーガイドは坂が急だと言いながらぼくの二の腕につかまった。月も星も見えない暗い夜だった。ただ目の前に、ライトアップされたアルハンブラ宮殿が薄桃色にぼんやりと浮びあがっていた。

 こういった些細なできごとの一つひとつがぼくに自信を与えたし、それがまた過度なうぬぼれを招くことにもなった。

 

 自慢話をいくつか披露しているうちに、ぼくは《20代後半のおれとは、ともだちになれないな》とため息をついてしまった。

 孤独でいた理由もなんとなくわかった。ぼくには人をひととも思わない傲岸不遜なところがあった。

 思いあがりを増長させた要因は技術の習得と知識の蓄積にあった。が、身につけた技術など数年もしないうちにアッという間に廃れてしまう。1990年式の技術と知識の耐用年数は8年と持たなかった。そして日本社会にパソコンが浸透し、誰もがDTMで気軽に音楽を制作できるようになったころ、ぼくは会社を辞して、本格的な音楽活動に突入したのである。

 ぼくは自分自身の腕前に、努力の積み重ねに惚れていた。しかしその「自惚れ」は半年もしないうちに世間にはまるで通用しないものだと気づかされた。会社という後ろだてをなくした技術に、社員という肩書きをなくした知識に、人は目もくれない。ただ「あなたの本質とはなんなのだ?」という問いかけのみが突きつけられ、うぬぼれる余裕など、もはやなかった。

 うぬぼれたあげくの結末が、うだつの上がらぬ現状だ。ただ、あのまま会社に留まって偉大なアマチュアとして趣味的な音楽に興じる人生よりか、いくぶんかはましだったんじゃないかと最近は思えるようになった。

  技術の習得に血道をあげていた時代を全否定するつもりもない。あのころに培った技法の数々は他の業種に就いても応用可能なものだった。なんだかんだいって、のちの人生においても大きな糧となっている。

 

 ときどき戻りたくなる。秋から冬にかけての寒い時期、暖房も灯りもつけずに電子ピアノを何時間も弾きながらスタンダードナンバーをおさらいしていた時分に。

 あのころのひたむきさを取り戻せたらいいのにと懐かしむ気持ち。

 これもまた、ぼくの自惚れだろうか?

 

 

 

 

【追記】

*1)Tさんは、ニューブリード在籍中に「8時だョ! 全員集合」に出演していた。そう、あの「タブー」のトランペットを吹いていたのである。ぼくは小学5年の七夕集会で、加藤茶の真似して「ちょっとだけよ〜」の振りを全校児童の前で演ったことがある(むろん大受けだった)。いつだったか酔った勢いに任せて「つまり小学生のころから、おれはあなたに踊らされてたってわけです」と伝えたら、そのときばかりはTさん、さすがにニヤリと笑ったね。

*2)ネギのドラムはパワーには欠けていたけれども、タムの響きになんともいえない枯れた風情があって、ぼくは愛用していた。会社を辞めるときに営業部の方から、誰も使わないのだから譲ってあげようかと訊かれたが、会社の備品だからと固辞した。しかし、あのとき貰っておくべきだったといまだに後悔している。

*3)今朝(9月13日)『小椋佳さんが「生前葬コンサート http://nhk.jp/N4FJ677k  』というニュースを見て、とあるイベントでバックバンドを一度つとめたことを思いだした。小椋さんが第一勧業銀行浜松支店長だったころの話である。偉ぶったところはなく、物腰柔らかで、おまけに図体がデカかった。「愛燦々」と「シクラメンのかほり」ともう一曲(なんだったっけ?)を、立場があるからとノーギャラで歌った。