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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『ぼくのTVショウ』 Turn It On Again

 

 

 

 昨日(8月14日)阿蘇盂蘭盆会から戻ってきて、ビールを飲みながらTwitterに興じていたんだけど、酔いにまかせて書いたもんだから、ひどく乱雑な連続ツイートになってしまった。で、反省の意味も含めて(苦笑)、足りない部分を補い、注釈をつけながら、まとめてみようかと思います。
  

① 帰宅後、阿蘇で貰ったとうきび(とうもろこし)を茹でたやつを齧りながらこれまたお礼に貰ったビールを飲んでるんだけど、とうとつに思いだした。おれ小学4年生のときにN H Kローカルのテレビ番組に出演してたんだ。朝7:20からの20分、クマモトだけで放映されていた「話題の窓」って番組に。→

② 続き)とうもろこしの芯の部分を人形にみたてて作る「とうきび人形」って民芸品があるんだが、そのとうきび人形づくりの名人が阿蘇にいて、その方が少年時代に人形を作るきっかけとなったエピソードがあるんだけど、その回想シーンを小4のおれが演じたんだ。地元のバレエ学校のお姉さんと一緒にね。→

③ 続き)千葉城町のN H Kスタジオで収録に臨んだ。わずか2、3分のシーンなのに何回もNGくらってね、2、3時間かかって、ようやくOKもらった。とうもろこしを食べる場面では、2、3本は食ったな。そんな努力の甲斐もなく、週明けの放映後、学校でおれについたあだ名は「とうきび人形」だったよ。

④ 続き)「とうきび人形、やーい」って囃し立てられた。そんときおれ、子どもごころに固く誓ったね。こんなイナカから早く脱出せねば、と。(終り)

⑤ 前々ツイート訂正。努力の甲斐もなく → 努力の甲斐も虚しく

 と、ここまでがひとくくり。だいたい30分くらいで書いている。読みかえしてみると大きな間違いはないが、ところどころ補足しておいたほうがいいだろう。

〈注釈 1〉

  • N H Kの番組に出演してみないかという打診があったのは、水前寺でバレエ学校を経営する母方の親戚からだった。したがって地元のバレエ学校というのは正確ではない。

〈注釈 2〉

  • 回想シーンには、ちゃんと台本があった(当たり前か)。セリフはなく、マイムというか、振付だけだった。どんな台本かというと、

とうきび人形づくりの名人が、少年時代を回想する(音楽)。

○夕涼みをしながら、近所のお姉さん(浴衣姿)と一緒に、(同じく浴衣姿の)少年は、焼きトウモロコシを食べる。

○少年が一心にトウモロコシを食べているあいだ、お姉さんはトウモロコシの皮を巧みに織り合わせながら花嫁人形をこしらえて、少年に「はい、どうぞ」と手渡す。

○少年は、お姉さんが作ってくれた人形を目の上にかざして大いに喜ぶ(F.O)。

   と、こんな感じだったと記憶する。

〈注釈 3〉

  • それで、「どーも違うんだよなー。人形を目の上に掲げる角度がよくない。よろこびとあこがれの両方が混じった表情を作れないかな?」などと、演出家らしき人から何度もダメを出されつつ、(バレエ学校のトップだった)共演者のお姉さんに励まされつつ、なんとか収録を終えたのだった。
  • その挙句、放送されたら、「やーい」とからかわれるんだもの。やっかみ半分だったんだろうけど、なんかホント、気持ちが萎えました。 
 
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むぞらしか? それとも生意気かー?
 
 それでなくても、おれはからかいの的だった。
 上の写真は、小学2年生のときに撮影されたもので、大洋デパートのショーウインドーに半年間ほど飾られていた。このことでも、あれこれ言われたなあ(ドレスを着たおしゃまな女のこと手をつないでいる写真もあったから、なおさら)。
 父はことあるごとに、「おまえは目立ちすぎる、目立つな」とおれを戒めていたけれど、そう育てたかったら、子ども服のモデルやテレビ出演など、させなければよかったのに、と思う。クマモトみたいな地方都市で華やかしい活動をすれば、そりゃ目立ってあたりまえだっつうの。
 それに、クマモトって他人の言動にいちいち口出しする土地柄で、その土壌は子どものころから培われている。それが高じると、「あいつはつまらん」「なんもしきらん(やりおおせない)」と、足を引っぱりあい、陰口をたたき合う大人になるんだが。
 ツイートで、こんなイナカから早く脱出したいと書いたのも、子どものころの正直な気持ちだよ。
 ところで、話は逸れるが。
 1973年11月29日、おれが小学5年生のときに、死者103人という大洋デパート大火災が起こった。
 おれは写真のこともあって、大洋からはずいぶん足が遠のいていたけど、このときばかりは、自分の身を焦がされるような痛みを覚えた。
  
 ちょっと、しんみりしちゃったな。次にいこう。
 そうそう、酔っぱらってtwitterしてたらって話だったね? 「とうきび人形」でやめときゃよかったのに、「渚のカンパリソーダ」にかんするツイートがタイムラインに流れてきたものだから、そこで記憶の蓋を閉じていた留め金がパチンと外れたんだ。
① 缶ビール一本で、完璧に酔っぱらえるおめでたい私。寺尾聡の「渚のカンパリソーダ」で、こんな記憶までよみがえってきたぞ。→https://t.co/dRonLgtqH3

② 続き)1981年。寺尾聡が「ルビーの指輪」で大ヒットを飛ばしたころの話だ。寺尾さんのバックバンドでリードギターを弾いていた方に頼まれて(いや、ご好意で)、かれのローディーを2、3日つとめたことがあるんだ。その日は「NTV紅白歌のベストテン」の収録ってことで、渋谷公会堂へ赴いた。→

③ 続き)楽屋の寺尾さんは、とても気さくな方だった。ボーヤのおれがぱくついているハンバーガーを覗きこんで、「旨そうだな、おれにもちょっぴり分けてくれない?」なんて声をかけるような。対して、同じ楽屋にいたジュリー(沢田研二)はクールだった。待ちの間、一言も喋らずぶ厚い本を読んでいた。→

④ 続き)さて、寺尾聡とそのバンドが「渚のカンパリソーダ〜ルビーの指輪」のメドレーを演奏したあと、ギタリスト氏はおれにこう指示をした。「ステージ上のエフェクターの電源を切りそこなった。あとでスイッチオフっといてくれない?」ぼくは幕が下りているのを幸いとばかり、壇上に飛び乗った。→

⑤ 続き)と、同時に、德光和夫さんのMCが、渋公内にとどろき渡った。「さあ最後に、今日出演のみなさんに再度登場していただきましょう。マッチー!」そして再び緞帳がするすると上がっていった。ひとり壇上であたふたしているマヌケなローディーが実況生中継で全国放送されてしまったのである。→

⑥ 続き)舞台袖でディレクターみたいな人から大目玉を食らったが、寺尾さんは、「いやーキミ傑作だよ」と、しょげるおれを慰めてくれた。なお、その放送を観ていた人の話によると、「薄暗くってそんなのは気づかなかったよ」とのこと。それを聞いてホッと胸をなでおろした十代最後の夏でした。(終り)

 と、翌朝読みかえしてみて、さすがにこれはまずいぞ、いくら酔っていたとはいえ文章がよれよれじゃないかと頭を抱えた。

 

⑦ 昨夜は酔っぱらって過去の恥ずかしい話を書いてしまった。目が覚めて読んでみると、おかしな点が幾つかある。とりあえず一個だけ訂正。誤:緞帳 → 正:内幕 幕間とはいえ、緞帳が下りているわけないもんね。一連のツイートは、あとで註釈つきでブログにまとめておこう。

    ……というわけなんです(ふう)。

 誤読の可能性があるところだけを、一つひとつつぶしていこうか。

〈注釈 1〉

  • 寺尾聡の大ヒットアルバム『リフレクションズ』には、林立夫dr以下、今剛g、井上鑑kb&arrなどの、いわゆる「パラシュート」の面々が演奏していたが、ツアーや番組収録の際は、違うメンバーを従えていた。もちろん、あの複雑なアレンジを演奏するのだから腕っこきであることには変わりなく、メンバーの中にはそののち売れっ子になったミュージシャンが幾人もいた。
  • その前日、おれはとあるバンドのオーディションを受け、不採用となっていた(どうでもいいけど、そういう話ばっかりだね、おれって)。そのバンドの監修役を務めていたギタリストのH氏が、不憫がってか、田舎から出てきた若者に華やかな芸能界を見学させてくれたというわけである。

〈注釈 2〉

  • 寺尾聡と沢田研二が同室とは、それだけでもすごい絵面だが、その日の両者は軽く会釈した後、終演までお互い話かけることはなかった。
  • 寺尾さんが「旨そうだな」と言ったあとで、おれは側にいた誰かから忠告された。「きみ気が利かないなあ。ああいうときはだね、『じゃあオレいまから買ってきまーす』って、すっ飛んでいくものだよ」と。そういう機転はまったくきかない。おれはいつもボーっとしていて、チャンスとやらを見過ごしてしまうのだ。
  • 沢田研二が一心不乱に読んでいるぶ厚い本はなんだろうと、ひと気のないときを見計らって、そっと覗きこんでみた。表紙に「天草」の二文字が見えた。天草四郎にかんする本なのかもしれないと、おれは思った(ちょうどそのころ、『魔界転生』という映画で、沢田研二天草四郎時貞役を演じていた)。
  • 沢田研二は、バックバンドのエキゾチックス(吉田健bなどが在籍)とも、ほとんど口をきかなかった。

〈注釈 3〉

  • 正確には、「ステージ上のエフェクターの電源をオフってくれ」という指図だったと思う。 過熱しちゃうから……とも言ってた記憶がある。エフェクター全体を制御するシグナルボックスみたいなものがケースにカスタマイズされていて、それが熱を帯びやすいと、H氏は懸念したのだろう。
  • ステージ上は暗転しており、足もと定かではなかった。寺尾氏はトリだったから、他の出演者、石川ひとみ(めちゃくちゃ可愛かった!)や近藤真彦(マッチー)、それに沢田研二なども、すでに登場したあとだった。だから、もう収録は終了したのだろうと早合点したのである。
  • それだけに、徳光和夫氏のMCで再び幕が開いたときは、ほんとうにたまげたね。暗かった舞台上がパーッと明るく照らしだされたものだから、どこにも隠れられず、ただおろおろするばかりだった。けれども、そのとき脳裏を駆けめぐった思いは、「あーこれって全国ネットで流れてるんだよな。おれ今まさに全国に恥をさらしてるんだー」という呑気なものだった。

〈注釈 4〉

  • おれの目には優しげに映ったけど、寺尾氏、バンドには厳しかった。演奏直後にメンバーを集めて、シビアな注文をだしていた。「とくにベースだけどさ。きみスラップしすぎでしょ。どんな音楽をいま鳴らしてんのか、ちょっと考えてみたらわかるだろ?」とね。語気は荒めだった。寺尾聡がザ・サベージのベーシストだったってことは、ずっと後になって知った。

〈注釈 5〉

  • 念のために記しておくと、ボーヤというのは、ローディーの隠語(業界用語)ね。ん? ローディーとは、ミュージシャンの身のまわり全般をお世話する係のことだよ。

  過去を美化したくはない。美化しないためにはどうするか。それはどんな些細なことがらも、もれなく記すことであろう。人は往々にして、自分の都合の良いところだけ、関心のあるところだけ、あるいは問題点にしたいところだけクローズアップしたがる。

 その証拠に、上に番号をふって示したツイートの、リツイート数とお気に入り数を比較してみると、③の、寺尾聡と沢田研二が同じ楽屋だった、というツイートだけが高い数値を示していた。

 で、翌朝こんな皮肉を投稿した。

 

ツイッター民は賢明だ。自分の好みにあったのをリツイートしていく。熟れた実だけを啄ばむ鳥のように。

   そして、茶の間から流れてくる7時のNHKニュースの音声を聞きながら、こんなこともつぶやいてみた。

⑨ 過去を語る場合、美談になることを戒めなくてはならない。美辞麗句の踊る報道や潤色された文章とは距離をとっていたい。それこそ、自虐史観的な視点を備えたくらいが、ちょうどいい。(7時のニュースを聞きながら思う)

 終戦記念日にちなんで、N H Kでは、特攻隊員の遺書にかんするニュースが流れていた。

 情緒に流される原稿は辛うじて抑えられていたけれど、それでも、ずいぶん(特攻隊員が)「達観」した部分ばかりを強調するなあという感想を持った。

 捉えかたは人それぞれだとしても、これでは「お国のために捧げた尊い命」という枠に、すっぽり収まってしまうばかりではないか。

 茶漬けをすすりながら、そんなふうに感じていたのだ。

 

 ……またもや重たくなってしまったね。最後は軽い話題で締めくくろうか。

 そうだ、TVといえば、もう一つ出演した番組がある。タイトルは忘れたけれども、やはりN H Kの、それもローカルだった(笑)。

〈地元クマモトで頑張る音楽家のみなさん〉という趣旨の番組で、1988年に放送された。アマチュアバンドが3組と、民謡の歌い手さんや和太鼓の保存会なんかが一堂に会して出演、市民会館での公開録画、ゲストは水前寺清子八代亜紀という、いかにもN H Kな。

 おれは当時ちょこっと腰かけていたバンドの一員として出演した。本人たちはルーファス&チャカ・カーン的なサウンドを演ってたつもりだろうけど、おれからしてみればマリーンとスクエアみたいな代物だった。ま、ぶっちゃけフュージョンね。あまり反りがあわなくて、すぐに脱退したけれど、演奏は各人なかなか達者だった(というか、おれがかれらの演奏レヴェルについていけなかったんだよね)。

 水前寺さんと八代さん、どちらも腰が低かったな。どんな人にでも、「今日はよろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げるんだ。ああいうところは謙虚に見習わなくちゃと感心したもんだ。

 さて、リハーサルと本番のあいだに、おれはシンセサイザーの配線をチェックしていた。すると、音響さんがやってきて、こう耳打ちしたんだ。

「3組それぞれキーボードを持参してるけど、共通にはできなかったわけ?」

 おれは一瞬、なにを言われているか理解しかねたけど、

「はあ、それぞれのバンドで、使っている音色も違いますしね」

 と無難に答えた。するとその人はチッと舌打ちし、

「ドラムみたく共用にしろよな。デジタルの昨今ならROMパックの入れ替えだけで済む話だろ? いちいちレベル調整する、こっちの身にもなってみろよ」

 ってんだ、と毒つきつつ、かれは舞台裏に去っていった。ったくイナカのアマチュア風情がよぉと、これ聞こえがしにつぶやきながら。

《おれ、なんか悪いことしたっけか?》

 かれの苛立ちが、どうしても理解できなかった。自分では気づかないけれど、おれには人がカンにさわる何かがあるのだろうか? と思わずにいられなかった。そして、そんなときには決まって、オヤジの「目立つな」って警句が脳裏を過るのだった。

  同じようなことは数年後にまたしても起こる。

 1992年、広島で第2回大正琴全国大会が開催されたが、バックバンドでパーカッションを担当していたおれは、バンドリーダーに、コンガのパターンを「このイモ」と扱きおろされた。

「おまえさんコンガの基本パターンも知らねえのか? そんなんでよく打楽器科卒でございって顔ができるな。ツク・パ・ト・トンだよタコスケ。覚えるまで叩いてろ」

 おれはシャカリキになって、本番が始まるまでのあいだ、ツク・パ・ト・トンとコンガを叩いていた。すると、舞台監督らしきお方が渋い顔して近づいてきて。

「あんたさあ、開演前に練習すんなよな。シロートじゃないんだからさ。カンベンしてくれよ、ったく」

 舞台演出・制作を手がけていたのは、もうお分かりでしょうが、N H K

 いや、この場合、こっちが全面的に悪いんだけどさ。

 でも、おれってホント、N H Kととことん相性わるいのな。

 

  ではお別れのナンバーは、ジェネシス1980年のアルバム『デューク』よりシングルカット、「君のTVショウ」に、Turn it on again!

Genesis - Turn It on Again - YouTube

 
 
 
 
【追記】
 しかし、(メディアを支配し続ける)テレビの時代といわれて久しいのに、おれはたったの3回しかテレビに出演(?)していないんだよな。現代人としては、ちょっと少ないかなあ……と、思っていましたが、こないだ正月にコーエンで「たこあげ大会」を催したとき、T K U テレビ熊本のローカル番組「かたらんね」(語らないか? と参加しないか? の熊本弁ダブルミーニングです)にチラッと映ったんだよね。
 すると、放送後すぐさまメールが何通も届いた。「観てましたよ」ってさ。なんだかんだ言ってみんな観てるんだよ、おそるべし、テレビ!