鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

乾酪の産地はどこですか?

 

 
「千代ちやん、もつとこつちへ寄つてよ。ーー可笑しな人ね。   で  ることを知らないのかしら。」
「それぢやおれが  てやる。千代ちやんにここと替わつてもらはう。」
 彼は電燈を消した。その彼の腕を、千代子が彼女の   引つぱり込んだ。
「春景色」より部分 川端康成選集・第二巻(改造社 昭和十三年発行)
 
 前回のエントリで、アンダーラインを引いて空白にした箇所があった。べつに隠したつもりはないのだが、あとで読みかえすと思わせぶりにもみえる。ただ単に、そこに当てはめるべきことばが、どうしても思い浮かばなかっただけなのだが。
 文章の欠落やら、行間ににおわせたニュアンスやら、意図的な隠ぺいは、読者の想像力をおおいにかきたてる。たとえば、石川啄木のローマ字日記を読んでみると、書かれている内容そのものは(後世の読者からしてみれば)べつに隠すほどのものではないと思われるが、本人にとってはおおっぴらにはできない種類の告白だったのかもしれない。いずれにせよ暗号を読み解いていくような愉しみが、ローマ字日記にあるのはたしかである。
 しかし、伏せ字を強要される時代は、そこまで来ているような気がする。いや、実際には既に来ていると考えたほうがよいかもしれない。ぼくはいま、手元にある川端の全集をぱらぱらとめくって、パッと目についた部分から抜き書きしてみたのだけれど、いまの感覚からすると「この程度の」仄めかしすら許されなかったのが、戦前の、昭和13年だったのである。図書館にでも行って、戦前に発行された、政治的な部分に触れた書物をさがしてごらん。前編わたって「○○○○○○は、○○○○○○○○の○○○○○○○における、○○○○○である」みたいな伏せ字だらけの本が書架に沢山まどろんでいるから。その、○○○と伏せられたところに、なんという文字が並んでいたかを想像するのは、それこそ想像力をやたらと刺激されるので、おもしろいといえばおもしろいのだけれども、やはり、そういった表現の拘束が顕在化している時代は、不幸である。そしていま、2014年の日本が、そうでないと言いきれるだろうか? この、社会全体を覆いつくしている例えようのない閉塞感は、暗黒大陸じゃがたらが「言っちゃいけない症候群」(1989年 アルバム『それから』収録)で既に描いていた風景だけれども、まさか、これほどまでに「言いたいことがいえない」時代になるとは、あのころはさすがに想像つかなかった。
 おそらく、心ある言論人は、知識人は、あるいは新聞記者は、行のわずかな隙間に、この時代の問題点を正しく指摘した文言を忍びこませているのだろう。うっかり見過ごしてしまいそうなくらいの、一見なにげない風を装った文章の端々に、引用先に、あるいは脚注に、ひも解くべきヒントを注意ぶかく埋めこんでいるだろう。しかし、往々にしてぼくたち市井の凡人どもは、忙しさに感け、解読すべき彼らの暗喩や警告を、見過ごしてしまっている。ましてや、複数の文献や証言を並列させて、そこから浮びあがってくるべき全体像を俯瞰し把握することもない。斯うして、すべては瑣末な各論に収斂されていく。彼らはどうでもいい些事にかんしては熱心なくせに、総合的な見地から発せられた提言には耳を傾けようとしない。と、知を携えた者たちの嘆きが聞こえる。ある一定から以上には、けっして踏みこまない人たち。本質にたどり着こうと努めぬ人たち。彼らにとって、インターネットにあふれかえる無数の〈つぶやき〉は、愚者のため息にしか映らないだろう。この、どうしようもない乖離が、知性VS反知性の構図を鮮明にし、溝を深めてゆく。それは双方にとって、きわめて不幸な状態であり、深刻な事態である。
 まあ、愚者側のぼくは、愚者ならではの無勝手流な駄文をもって、えっちらもっちらと対象に迫っていくしかない。じっさいにそれ以外の手だてを、いまは考えつかない。
 ただ、ぼくには行き過ぎようとすると、ちょっと待て早まるなと警告を発してくれる方々がいる。拙速な判断はあなた自身を損なう、ここはぐっと堪えて思考を深化すべきだと忠告してくれるありがたい人たちが。この一週間ぐらいに思うことは山ほどあったが、それらを撒き散らすことなく内側に蓄えていられたのは、かれ彼女らの忠告に耳を貸したゆえであると共に、ぼくの側にも少々の考へがあつてのことである(と、川端康成ふうに前半を締めておく)。
 
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 鎌倉の古書店で購入。ワゴンセールで800円也。
 
 ひとつの事例を示そう。
 これを実際そのまま詳らかにするのは差しさわりがあるので、ここは一丁、フィクションにしてしまおうとぼくは企んだ。だから、後半に書かれた出来事や個人名は、すべて架空のものであるとお断りしておく。念には念をと、さわりに触れた「伏せ字」を多用しよう。あるいはフランク・ザッパ師に倣って、一部に回りくどい比喩を用いてみよう。わざわざ。面倒くさいけれども。ぶつぶつ。
 

    春ちゃんは悩んでいた。
 お客さまの申し出に応えたいのだけれども、それを許さない職場の空気に、戸惑っていたのである。
 春ちゃんの職場では、「食の体験○室」を開催している。対象はおもに子どもたちで、団体客を、随時募集している。むかしながらの調理方法を実地で体験しながら、食にたいする理解を深めようという趣旨の催しは、体験学習の一環として、県内各地の○学校やら○ども会やら保○者会から、たいへんに好評をいただいている。おかげさまで週末の予約は向こう三ヶ月先まで埋まっているという盛況ぶりだった。
 春ちゃんは、その体験○室の担当である。予約受付からスケジュール管理、食材の調達、さらには当日のお客さまへの対応まで一手に引き受けている。責任は重大だ。しかし彼女は、持ち前のがんばりと肌理細やかな気配りで、これまで大過なく業務をこなしていた。
 ところが先週、春ちゃんがたまたま休みだった日に、およそ二ヶ月先に予約を入れている、ある団体の代表から電話がかかってきた。応対したのは、春ちゃんの直属の上司である環七さん。それは、こんなやりとりだった。
「あのう、○窯で焼く、西洋風お好み焼きがありますよね」
「はいはい。西洋風お好み焼きは、たいへん好評をいただいております」
「その、西洋風お好み焼きでは、とうぜん乾酪を使いますよね」
「そうですね。乾酪は西洋風お好み焼きに欠かせないものですから」
「その、乾酪の産地というものが、おわかりになりますか?」
「え、産地ですか。産地はそのー、まあ国産のでして」
「その国産が、具体的にどこかを、私ども知りたいのですが」
「それは、いま現物が手元にありませんので、すぐにお答えはしかねますが。
 で、産地を知りたいとは、どういった理由からなんですかね?」
「私たちのグループには、○○県から避難してきた家庭が、二、三組いらっしゃいます」
「はあ」
「つまり、産地が明らかでないかぎり、食べられないという。そこで私たちは、協議しました結果、そのご家庭の意思を尊重しまして、食材の産地をあらかじめお聞きしておこうと、そういうことになった次第なんです」
「えー、ちょっと調べてみないと、なんともお答えしかねますが」
「では、明日また連絡いたします。それまでに、調べていただけますか」
「それはまあ、かまいませんがね」
「もしその乾酪の産地が、○○であった場合、そのご家庭のかたは、自宅から食材を持ってくるとおっしゃってます」
「うーむそうですか。しかし、それは、ちょっと……」
 と、春ちゃんの上司が困惑しているあいだに、電話は切れてしまった。環七さんはすぐさま、ただいまの顛末を所属の長に報告した。
 所属長は渋い顔をして、その話を途中でさえぎった。
「あのですねー。食の体験○室は、全員が・同じ食材を使って・同じものを作って・食べる。その一連が教育の一環、すなわち『食育』だと、ぼくたちは考えておるわけですよ。そのルールにしたがっていえば、一部だけが特別の食材を持ち寄るというのは、違うんじゃないかと思うんだけどね」
「私も、そう思いました。特別扱いはいかんな、と」
「当然。だいたい、一部の例外を認めたら、次からそれが常態化、当たり前になってしまう。それが認められるんだったら、うちは違うトッ○ングにしたいわ、ベー○ンじゃなくてアン○ョビがいいなと、どんどんエスカレートしてしまうでしょ? それでは困ります。お客さまは平等に扱う、の原則から外れてしまう」
「なるほど。おっしゃるとおりですね」
「それにね」と所属長は首を縮め、声をひそめた。「その、乾酪を拒む理由が、ぼくにはどうも、腑に落ちんね」
「そこですよ。どうもなんというか、市○グループのやかましいところというか、正直もうして、かないませんな。気にしすぎなんじゃないですか」
「まったくだ。環七さんの言うとおりです。○○線量がどうとか、残留濃度がどうとか、なにを言わんかや、です。だいたい、こっちまで避難してくる必要がどこにあるね。おおげさな。ヒス○リックなんじゃないのかなって思うよ。個人的にはね」
 だから、食材の変更は認めないと、きっぱりお断りするように。
   所属長はこの話題をそこで打ち切った。

 
   翌日、出勤してきて、上司らの判断を聞いた春ちゃんは釈然としなかった。理由はわからないが、すごく一方的だと感じた。それにまた、柔軟性に欠けているとも。そしてなぜ、担当である私のいない間に、早々に結論づけてしまったのだろうと、ちょっぴり腹立たしい気持ちもした。
 とにかく、電話がかかってくるまえに、自分から件の団体の代表へ連絡してみようと思った。所属長の判断をそのまま伝える気は、春ちゃんにはさらさらなかった。お客さまの意見はどうなのか、そこを自分の耳で確かめてみたかった。
 午前に電話は通じなかった。午後になってようやく、会の代表とつながった。

 春ちゃんは、「私どもの体験○室では、食材は共通にしております」と、まずは当社の基本姿勢を明確にしておいた。

「ですから、どの団体様にも、同じ食材を使って、料理してもらっています。そこは、ご理解いただけますでしょうか」
「承知しております」と、代表者は冷静だった。「ただ、そこを押してなんとか、とお願いしているわけです。それで、乾酪の産地は、どちらかお分かりでしょうか?」
「北海道です」と春ちゃんは即答した。「○○乳業の乾酪で、生産地は北海道であると、裏ラベルに記載されております」
「そうですか。やっぱり……」と代表者は落胆の色を隠さなかった。「それでは、あのお母さまを、納得させられませんわ。○○乳業は産地偽装の疑いがあると、再三申しておられましたから。
 ね。ご検討してくださらない? そのご家庭のぶんだけ、何枚かだけでいいのよ。私どもは、『ふつうの食材』を使うことにやぶさかではないの。だけどね、避難してきた家庭にとって、そこは絶対に譲れないところだと思うの。私もその思いを尊重してあげたいし。なんとか、融通してもらえないかしら?」
 代表者の、ややくだけた口調に、ある種の依存心というか、おんな同士の気安さのようなものを感じとって、春ちゃんはあまり愉快ではなかった。が、それはそれとして、なるたけ冷静を肝に銘じて、彼女は代表者に、とりあえずこう答えた。
「お気持ちは、私も理解できます。いま一度、上司に相談してみます。予定日までには、まだ間がありますから、それまでに再度検討いたします。また連絡さしあげますので、お待ちいただけませんでしょうか」
 意見の保留に、代表者は、よろしくお願いしますと言った。電話口の向こう側で、頭を下げているように、春ちゃんは感じた。 

「そりゃあさ、あの二人にはおもしろくなかろうさ。だってあの人たちは『再○動』派だもんな。『反○発』ぜんたいが気に食わないんだよ」
 春ちゃんの彼氏は、そういって皮相な笑みを浮かべた。体制順応、自○党支持一辺倒、規制・規則にがんじがらめ、くそくだらねえやと、彼女のまえで、ことさら露悪的にふるまった。
「で、どう思うの春ちゃんは。あいつらのいいぶんに大人しく従うの。ルールはルールですから守ってくださいと、先方に、お客さまにお伝えするの?」
「それが言えないから、私、困ってるんだよ」
 春ちゃんは困惑を隠さなかった。「あの二人」と反目して、さっさと職場を離れた彼氏だから、好き放題が言えるのだ。私はまだ在職中だからね、あまり波風たてるわけにもいかないのになと、彼氏の無理解に、少しばかりいらだった。
「所属長さまは、昨年おっしゃっていたぜ、『○発の再○動は不可避の選択だ』とな。環七さんもそれに同調して『経済の発展のために止めるわけにはいかんですもんな』と。あのひと、電気料金の高騰に、ずいぶん頭を悩ませていたもんなあ。請求書を眺めながら、『早く○内を再開してもらいたいもんだな』ってこぼしてた。そういう考えが根底にあるかぎり、放○能○ばくを心配して避難するなんて行動は、心情的にも、彼らには理解できやしないよ」
「……ん、そうかもしれないけど」
 問題のよしあしについて、春ちゃんはそれ以上踏みこむつもりはなかった。ただ、なんとかしたいな、このまま「例外は認めず」を容易に受けいれることが、いや、受けいれそうになっている自分が、どうにも納得できなかった。
「私はただ、サービス業として、そんなに杓子定規な考え方でいいのかな、とは思うんだ」
春ちゃんはいつもそうだな。賢明だよ、利口な生き方だ」
 明日またハ口ーワークに行くつもりだとつぶやきながら、春ちゃんの元同僚である彼氏は、ハンバーグステーキの最後の一切れを、ロいっぱいに頬張った。
「この牛肉だって、どこの産地だか分かんないけどな」とうそぶきながら。 

  翌日いの一番に、春ちゃんは環七さんを横目で促すと、所属長のデスクへと、まっすぐに進んだ。
「所属長、お話があります」
   所属長は、お気に入りの春ちゃんが、こわばった顔をしているのを、何事かと怪訝そうに見あげた。
「ん、どうしたの?」
「先日の、乾酪の件ですが」
「あああれね。『お客さまに平等』の見地から、例外は認めがたい。それが当社の、結論」
「そのことですが。今回は、私、乾酪の持ちこみを認めてもいいんじゃないかと思います」
「どうして? 一度例外を認めちゃうと、お客ってもんは、際限なくなるぞ」
「だけど、メニューやトッ○ングを替えるとか、そういうのではないですから、そんなに面倒というか、手間ひまのかかることではないです。当日は私が仕込みに入りますし、乾酪の盛りつけにも携わります。それでは、だめですか?」
   所属長は、ううむと唸った。
「絶対だめとは、言わんがね。春ちゃんがそこまでいうんなら。でもどうして、そうかたくなになるんだい?」
「……さあ、どうしてでしょう。私もよくわかりませんが、しかし」
 春ちゃんは、職場の最高責任者に向かって、決然と言い放った。
「私、遠くから避難してきた家族を、悲しませたくないんです。九○はつめたい所だ、理解してくれない地域だと、思われたくないんです」
 あー言ってしまった。

 春ちゃんは胸のうちで、はあっとため息をついた。これで所属長の私への評価はずいぶん下がるだろう。でもいいや、かまいやしない。私は私の気持ちに、素直にしたがっただけなのだから。
 失礼しますと頭を下げて、春ちゃんは自分のデスクに戻った。きっと背後の所属長は苦虫噛み潰したような顔をしているだろう。席に座ろうとすると、環七さんがあごをしゃくって、外へ出ようとうながす。春ちゃんは上司の後について、事務室をあとにした。
「どうしてあんなことを所属長に言ったんだ。前もって相談しろよ、春ちゃんらしくもない。あんまり魂消さすなよ。……まぁ、最後まで自分が落とし前つけるっていうんなら、あえて反対はしないけど。だけどなぁ、やってくれたなあ……」
 あたふたしているさまがなぜだか可笑しい。すまないなと思いつつも、春ちゃんは環七さんに向かって、あえて軽口をたたいた。
「でも、こないだ○窯で西洋風お好み焼きを焼いているとき、環七さんはこんなことをおっしゃってましたよね。『おれは球形の食い物が大ッ嫌いだ。玉ねぎなんか食うやつの気がしれん』って」
「ああ、たしかに言ったよ」
「それで、玉ねぎなんか嫌いだといった子どもがいたときに、『残していいぞ、なんならトッ○ングから外してやろうか』とも言いましたよね? あれも例外というか、特別扱いじゃないですか?」
 環七さんは、春ちゃんの指摘にうぐっと詰まった。
「そういうところがあるから、私、いいなーって思うんですよ」
 春ちゃんははにかみながら、窓の外を眺めた。夏の日差しがまぶしくて、春ちゃんは思わず目を細めた。なにを「いいなー」と感じたのかは、彼女自身よくわからない。この職場か、上司か、それともこの仕事が、か。
 ただ、いずれにせよ、この「いいなー」という気持ちを裏切りたくないなあと、春ちゃんは思うのだった。(了)

 
 
 
  あれ? 最後は川端康成ではなく、早乙女勝元みたいになっちゃった。