鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

『コンセール』 第二章 「シシリエンヌ」より抜粋

 

 2004年に書いた中編小説、『コンセール』。どこにも発表(応募)していないが、自分の作品ではいちばん愛着がある。
 今日はこの中から、第二章「シシリエンヌ」を抜き書きしてみよう。
 舞台は「半島からフェリーで渡った島」だと想像していただきたい。
 
 
「海は怖いんです、わたしを呼ぶから」
 えっ?
 かすかなつぶやきにわたしは振りかえる。ユカは昏い目をしてこういった。
「海が怖い理由、知りたいですか?」
 わたしは頷いた。
   太陽はすでに高く、陽射しは眩しかった。今年初めて暑いと感じた。ふと気づくと、神社に至る参道が延びている。白いコンクリートの鳥居がそびえている。
 わたしとユカは逃れるように神社の杜へと分け入った。
 
「二年前、わたしが小学四年生のときのことです。家族と一緒に海水浴にいきました」
 作文を読むような調子でユカは喋りだす。聞くのはわたしと、境内の入り口に睥睨する二匹の狛犬だけ。
「そのころ、わたしはスイミングスクールに通っていましたから、水泳は得意中の得意でした。クラスの誰よりも、ううん、そのへんの大人にも負けないくらい、上手に泳げたのです」
「へえ。わたしは下手だった。ほとんどカナヅチ」
「続けます。沖合いーーとは言っても百メートルぐらい海岸から離れたところですがーーそこに高さ三メートルほどの飛び込み台が設置されていました。鉄製で、赤茶けた色をした、かなり古くからそこにあったという感じの」
 水面に浮かぶ飛び込み台を想像してみた。
「わたしは飛び込みに凝っていたので、台によじ登っては練習をしていました。まわりはみんな大人の男の人たちで、でも、わたしはその中の誰よりも格好よく飛び込めたのです」
 ユカはわずかに微笑んだ。
「両親に観てもらいたかったんですよ。岸に向かって何度も、お父さーん、お母さーんと呼びかけました。彼らはいつものように話に夢中で、わたしをみてくれてなかったけれども」
 ふつう両親のことを「彼ら」と称すかしら。ユカが不憫に思えてきた。淡々と抑揚なく話し続ける少女が。
「そのうち、天候がにわかに怪しくなりました。海の天気って、急変するのだそうです。飛び込み台にはたくさんの人がいたけれど、ひとり減り、ふたり減り、ついにわたしと、よその県から来た大学生のグループだけになってしまいました。満潮に近づいていたので水嵩が高くなってきたし、雨も降りだしたし、それに強風が吹いて、波が荒れはじめて」
 ユカは、そこから一回も息継ぎしないで泳ぎきるかのように、一気に喋った。
「わたしはこれが最後だと思いきってジャンプしました。捻りを加えた回転を決めました。われながら『キマった、なんて上手いんだわたし』と自分を褒めました。大学生たちが、『よう、オレたちあのお嬢ちゃんに負けちまったぜ』などと囃しているのが聞こえました。
 わたしは早々にその場を離れようとしました。そうこうしている間にも波はますます高く、うねる速度を増してゆくのです。『もう一度飛び込め、根性見せろ』と荒っぽい叫び声が耳に届きます。あーわたしに聞こえるように言ってるなー、でも関係ないや、と背を向けましたが、なんだかイヤな予感がしました。『イノウエ、オマエやってみろよ、一回転ジャンプ、簡単だろう』と無責任な野次に応えて、『イノウエいきまーす!』なんて叫んで、イノウエさんが飛び込んで。でも、そのイノウエさん、しばらくあがってこなかった。きっと大丈夫だ、大人なんだから素潜りの経験だって豊富なはずだって、自分に何度も言い聞かせながら、わたしは岸辺に向かって懸命に泳ぎました」
「……」
「それからしばらく経って、大学生グループはうなだれて砂浜に戻ってきました。彼らをこっそり覗くと、担がれたイノウエさんがぐたりと、紫色に膨らんでーー」
 もうやめて!と叫びたかった。だけどわたしには、ユカの告白を最後まで聞く義務がある。
「図画工作の教科書に青木繁の『海の幸』って絵がありますよね。あの大きな魚みたいな感じで、だらんと両腕をぶら下げたニンゲンが、大人の男たちに担がれて、引き摺られていくのです。わたしは怖くなってその場を逃れようとしました。するとそのとき、なかのひとりが目ざとくわたしを見つけました。彼は怒りの表情で怒鳴った、『オマエのせいだ!』って」
 目をカッと見開き、カチガチ歯の根を揺らし、唇を震わせながら話し続ける。
「『オマエのせいだ! オマエが挑発したから、イノウエが……』と泣きながら言いつのるのです。もうひとりの比較的冷静そうなひとが、『おい、よせよ。この子に責任ないだろう』と遮って、彼らは海小屋の方へ足早に駆けていきました。
 イノウエってひとがその後どうなったのか、わたしは知りません。でも、あれでは助からないだろうなと、直感しました。そして帰るころには救急車やらレスキュー隊員やら近隣の消防団やらが大勢集まっていました」
 
 
「お父さんは、お母さんは……そのことを知ってるの?」
 陽子さんは紙みたいに真っ白な顔をして、わたしに恐るおそる尋ねた。
「知りません。わたしは彼らになにも伝えなかったから」
 ドライに語るを努めた。わたしはぜんぶを陽子さんに話した。海への恐怖、それがどこから来ているのかを、自分自身もまた正確に捉えることができた。それはある意味、爽快でもあった。ずっと抱えてきた重みを、誰かにつかの間背負わせるだけで、苦痛は半減するのだなと、シンプルに了解した。
「ユカちゃん」
 陽子さんはそっとわたしを引き寄せた。さっきのフェリーの甲板の上とは違う、柔らかで、やさしい抱擁だった。わたしは素直にからだを委ねた。陽子さんのわきの下から、コロンの匂いがほのかに漂ってきた。わたしは目を閉じた。そのままでいたかった。
「ユカちゃんごめん。ごめんね。辛いことムリヤリ喋らせちゃってごめんね、ユカ」
 気持ちいい。こんなに抱かれることが快感だとは思わなかった。陽子さんの表情を下からうかがうと、涙をポロポロこぼしていた。たちまちわたしは照れくさくなって空を見上げた。雲が幕を引いたようにスーッとふたつに分かれて、とびきり明るい青空が満面に広がりはじめた。
「海岸に行ってみませんか?」
 陽子さんにそういった。自分でも予測不可能な言葉がついて出てくるなーと、ちょっびりおかしかった。
「わたし、陽子さんとなら、克服できそうです」
 
 
 岩場の陰にスニーカーと靴下を脱いで、わたしたちは裸足になった。黒々とした大きな岩は、海藻がへばりついてぬめぬめとしている。足の裏がくすぐったい。思わずヒャーッと声をあげた。
「陽子さんってヘンなひとだと、最初は思いました」
「ふうん。で、いまはどう?」
「やっぱりヘンです」
 悩みを告白したユカは、思ったままを素直に言えるようになった。そうかあ、わたしヘンなひとか。まあいいや、少しずつこころを開いてくれているのなら。
「手をつないでください」
   ユカが左手を差しだす。わたしは細い指を確かめるように握りしめる。
「握力、強くないですか?」ユカは顔をしかめてみせる。「ピアニストだからかな?」
「関係ないよ。ピアノに握力なんか」
「さっき言ってた、弾けなくて逃げてきたって」ユカはわたしの目をまっすぐに捉えた。「ホント?」
「ホントだよ」できるだけサバサバとした口調で答えた。「コンサートあったのに、逃げてきちゃった」
「だから自分のこと、アマチュアだっていったの?」
「うん。まあ、そういうとこかな」
 砂浜になっているところまで、ようやくたどり着く。潮風はまだ肌寒く、水面はどこまでも青い。わたしはにわかに恐ろしくなっていた。さっきまでユカがこころにしまっていた、恐怖が伝染したのだ。それでもここはリードしなければならない。いやはや難儀な役を引き受けてしまった。
「それじゃ行くよユカ。こころの準備はいい?」
「はい」
「それではまいりましょう」
 わたしとユカは恐るおそる、遠浅の海に向かって、ゆっくりと進んでいった。
 
 十分ほど波打ち際で戯れた。
 海水は思ったよりも冷たくなく、むしろなま温いくらいだった。海への恐怖心を克服したのだろうか、ユカは十二歳の子どもらしくはしゃぎまわり、わたしに向かって波を蹴りあげたり、すくった水を振りかけたりした。おかげさまで髪の毛が、潮に湿ってベタベタになってしまった。
「陽子さーん、こっち、こっち」
 しゃがみこんだユカが手招きするので、傍に寄ってみた。覗きこむと波打ち際に、必死にもがいているヤドカリがいた。彼は波に打たれるたびにひっくり返り、だけどけなげに体勢を立て直すと、また目的の海へと向かってゆくのだ。
「かわいいなー、ヤドカリさん」
「うん、かわいいね」
 わたしはユカに同意した。するとユカは、ヤドカリの動くさまを見つめながらつぶやいた。
「お父さんが、好きなんですか?」
 え?
 思わぬ質問にわたしは狼狽えた。
「わたしは、陽子さんが好きです」
 ユカはなにかを堪えているようだった。苦しそうに切なそうに、わたしに訴えた。
「だから、陽子さんだったら、許してもいいんです」
 
 第二の障壁はこれかーー。
 わたしは白昼の太陽に幻惑されてしまう。
 潮騒はとめどなく続き、耳の傍まで押し寄せてくる。
 ユカを呼ぶ海が、わたしまで招き寄せている……
 
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 元原稿1ページめ。 縦書きで書くときのソフトは一太郎に限る。
 
 いま書き写しながら、あーすればよかった、こーすればよかったと悔やむところが沢山ある(たぶんいま書いたら三人称で統一するだろう)が、10年前の硬い文体をそのまま載っけることにした。
 なお、蛇足までに申しあげますと。
 前半のエピソードは知人の体験談を元にして書いた。勝手に使用してすみません。
 陽子さんは、処女作『二重奏』の主人公。高校卒業から10年後を想定している。
 主人公・ユカの名前は、ちばてつやの傑作から拝借しました。
 
   
 エルネスト・ショーソンの『コンセール』、第二楽章の「シシリエンヌ」を聴きながら、読んでいただくと幸いです。ハイフェッツのヴァイオリンでどうぞ。
 Chausson Concerto for violin (Heifetz), piano & string quartet op.21 2nd mov.