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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

エミリーに薔薇を

poetry

註:これはウィリアム・フォークナーの短編小説について書かれた記事ではないことを、あらかじめお断りしておきます。

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ひっそりと静まりかえった夜の庭園。
エミリーは息をつめ、忍び足で歩いている。
辺りには誰もいない、彼女ただひとり。
暗中模索のなかを、慎重に進んでいる。
 
 
門番が秘密の扉を開けたのだ。
「ここからお入りください、誰にも気づかれぬように。
ただし、わたしの鍵を預けることはできません。
案内することも、手をさし伸べることも。
 
どうぞ夜の散策を、ゆっくりとお楽しみください。」
エミリーは頷いて、それからひとりになった。
生い茂った草むらが、進路の邪魔をした。
枯れ木が横たわり、彼女の行く手を阻んだ。
 
いま自分のいる位置が、あいまいになってきて、
エミリーは立ちどまり、辺りを見まわした。
庭園の内側にいることはわかっていたけれど、
闇が支配していて、なにもかも定かではなかった。
 
ただ満月だけが、おぼろげな表情を浮かべて、
のっぺりした闇夜に、ぽっかりと貼りついていた。
月あかりに照らしだされた、塔を形どるシルエット。
エミリーはあの建物まで、進むことにした。
 
月あかりを頼みに、ふたたび歩きだす、
エミリーの袖や裾に、茨が絡みついた。
湿っぽい冷気が、肌にまとわりついた。
草木は夜露に濡れて、足下に沈んでいた。
 
 
ふと、どこからともなく、よい匂いが漂ってきた。
土や草から放たれる、重たげなにおいとは違って、
柔らかで、それでいて、刺すような香気。
エミリーは香りの漂う方向へ、誘われていった。
 
芳香の正体は、すぐさま知れた。
茨を掻きわけたそこには、おびただしい数の薔薇。
見渡すかぎりの薔薇が、庭園を覆っていた。
エミリーは息を呑み、その光景を見渡した。
 
薔薇の園があるとは、思いもよらなかった。
エミリーは躊躇いながらも、そのなかへ分けいった。
薔薇の丈は高く、彼女の胸もとに達していた。
彼女の全身は、薔薇の木々に埋れた。
 
色とりどりの薔薇の花が、エミリーに語りかけた。
わたしの色はどう? わたしの花びらはきれい?
わたしの匂いはいかが? もっとわたしを見てよと、
訴えているように、エミリーには思えた。
 
エミリーは、さまざまな品種の前に立ち、
その一つひとつを、愛でるように眺めた。
花弁に触れもした。外郭を指でなぞり、
顔を近づけては、鼻先に香りを嗅いだ。
 
エミリーは夢中になって、薔薇と語らった。
時の経つのも忘れ、薔薇と戯れていた。
ときとして薔薇は、するどい棘を刺す。
彼女の手や腕に、傷を負わせはしたが、
 
薔薇の放つ香りに、彼女は逆らえなかった。
闇夜に浮かぶ赤や黄や、朱や紫の花々に、
こころを奪われ、われをも忘れた。
エミリーは庭園のなかを、いつまでもさまよった。
 
……どれくらい時が経ったのだろうか?
時間の感覚が、まったく麻痺してしまった。
月は雲間に隠れ、闇は深みをまし、
べったりと張りついたまま、明けそうにもない。
 
薔薇との戯れに、疲れ果ててしまって、
ようやくエミリーはわれに返った。が、
ふり返ってみれば、途方もない薔薇の木々たちが、
彼女の帰る路を阻んでいるのだった。
 
エミリー、エミリー、まだいいじゃない。
エミリー、エミリー、ずっとここにいて。
薔薇たちのささやきが聞こえてくるようで、
エミリーは途方にくれて、動けなくなっった。
 
エミリーの背後には、古びた塔が聳えていた。
月あかりに浮かんでいた、シルエットの城塞が。
壁という壁に、蔓薔薇がはびこっていたが、
立つ気力もない彼女は、壁際に身を委ねた。
  
すると無数の棘が、エミリーの背を突き刺し、
彼女の白いドレスを、赤く染めていった。
しかしもはや彼女に、振り払う余力はなかった。
なすがまま薔薇に、絡めとられてしまった。
 
薔薇どもの群れが、視界を覆いつくし
むせかえる芳香が、鼻腔をついた。
枝という枝が、腕や脚に絡みついたが、
このままでもいいかな、とエミリーは諦めかけた。
 
 
が、そのときエミリーの手を掴むものがあった。
蔓薔薇の抱擁から、強引に身を剥がし、
エミリーを抱きかかえるやいなや、その場を逃れた。
それは、秘密の扉を開けた門番だった。
 
塔の扉を開け、螺旋階段を駆けのぼり、
蔦の先の及ばぬ最上階まで運んだのち、
「危ないところでした、もう少しであなたは、
薔薇の虜になって、命を落とすところでした。」
 
門番が詫びるのを、ぼんやりと聞きながら、
エミリーはくすりと笑った、「お気になさらず」と。
そして、さっきまで薔薇と交わしたことばの、
一つひとつを思いだしながら、静かに目を瞑った。
 
やがて夜明けの光が、天窓から射しこんで、
蒼ざめたエミリーの顔を明るく照らしだす。
門番は不思議そうに彼女の微笑みを見つめていた。
エミリーの頬は薔薇色に染まっていた。