ジャクリーヌ・デュ・プレを聴いていると、ビートルズを連想する。根が雑種のぼくは、そういう耳ばかり鍛えてきた。ディーリアスのチェロ協奏曲なんかを聴くと、とくにそう感じる。EMIレコード、同じアビーロードスタジオ、同じ機材、そしてほぼ同じ演奏者たち、ロイヤルフィルハーモニー。
違うジャンルの音楽でありながら、音響が同一であることの不思議。理屈ではなく、音楽が空気の振動であることを痛感する。なにが同じなのかと問われれば、だから空気の密度だと答えよう。弦楽器群の厚み、木管楽器の距離感、高音域の掠れ具合、中低音域の歪み具合、部屋の残響、などなど。
録音日を確認すると、1965年1月である。ビートルズの録音データを確かめると、それは『フォー・セール』と『ヘルプ』の狭間。重なってはいない。だが、B4とジャッキー(ジャクリーヌ・デュ・プレの愛称)が、アビーロードスタジオですれ違った可能性は、限りなく高い。
指揮はサー・マルコム・サージェント。かれがビートルズのレコーディングを訪問したことは、あまりにも有名。また、その後ジャッキーのダンナになるダニエル・バレンボイム(ピアニスト/揮者)が、当時アビーロードの常連であったことも、ポール・マッカートニーは『レコーディング・セッション』で述懐している。そう考えると、ジャッキーという不世出のチェリストを、あのポールが見逃すはずはない。
「おい、見ろよジョン、ジャッキーだ。いいセンいってる。そう思わないかい?」
「そうかい?」
いずれにせよ、65年の後半あたりから、ポールの弾くベースが飛躍的に「うたう」ようになった。それはアビーロードスタジオという、音楽を育む環境と無縁ではあるまい。
さて、当時二十歳のジャッキーはどうだったろうか。『風のジャクリーヌ』という伝記によれば、かの女はポピュラー音楽を好ましく思っていなかったと記されている。社会現象としてのビートルズは知っていただろうが、それほど興味はなかったかもしれない。
ロングドレスを身にまとい、ストラディヴァリウスを抱えて(第1)スタジオ入りするかの女にとって、自らの奏でるチェロと管弦楽の織りなす音世界のことしか、考える余地はなかったかもしれない。
同時期に録音された、エルガーのチェロ協奏曲を聴いていると、その並外れた集中力に気圧される。下界のもろもろを遮断し、未踏の高峰として屹立している演奏は、他のなにも目に入ってないように感ぜられる。
だが、ディーリアスの協奏曲は、比してなんとカジュアルな響きであることか。その、春の田園風景を彷彿とさせる情景の軽やかさ、親しみやすさは、あながち楽曲のせいばかりではあるまい。
あるいは、かの女とて人の子である。
『そういえばさっき、第2スタジオにはビートルズがいたんだ……』
と思いつつ、ダヴィドフをケースから取り出したかもしれない。それがはたちの等身大ではないだろうか。
時はまさにスウィンギン・ロンドン。同じ時代の空気を呼吸したもの同士の、白日夢のごとき一瞬のすれ違い。
後世の一東洋人が、かような空想にひととき遊ぶことを許したまえ、ジャッキー。
【追記】
ダニエル・バレンボイムとのコラボレーションは多岐に渡る。ぼくがジャッキーを知ったのは、上のハイドンの協奏曲のアルバム(ジャケット)を、図書室のレコード棚で発見したときからだ。
ジャッキーのファンに、ダニエル・バレンボイムはすこぶる評判が悪い。多発性硬化症でチェロが弾けなくなったジャクリーヌを見捨てたサイテーなダンナだ」と。だけど、真相は本人たちにしかわからないじゃないか。
【追記 2】
ジャクリーヌの奏法を、情緒過多だとして退ける意見もよく聞く。しかし、いろいろな演奏を聴いていると、必ずしもそうじゃないんじゃないかと思う。ピアノ3重奏なんか、アンサンブルに徹し、抑制した演奏をしている。情緒に流された演奏だと断ずるのは不当である。
ところで。知人のチェリスト(プロであるかれは、自身をチェロリストと称する茶目っ気がある)は、デュ・プレの名前を出すと「ああ…」とも「うう…」ともつかぬ呻き声を発する。それは、素晴らしさをことばには言い表せないというココロなんだろう。
クリームのベーシストとして有名なジャック・ブルースも、同じような感嘆をついていた(『めかくしジュークボックス』で)。
「あの深い響き。誰にも出せない音色……」とね。ジャッキーの魂は、低音プレーヤーを虜にしてしまうのだ。
【追記 3】
ジャクリーヌ・デュ・プレというバラの品種がある。先日聞いた話だが、長く病床にあったかの女が、その薔薇を「きれいだ」と喜び、自分の名前を冠することを承諾したのだという。
Jaqueline Du Pre - Jacqueline's Tears (Jacques Offenbach) - YouTube