Twitterが億劫になったわけではない。
ただ、なんとなく、こういう話題はそぐわないのかな、と感じたのである。
今朝がた、こんなツイートをした。
①
NYCのカーネギーホールで、演奏したことがある。日米文化交流週間の記念公演で、ぼくは大正琴の伴奏でドラムを叩く予定だった。が、旅行会社の手配ミスで、ドラムセットが運ばれたのは終演の直後だった。ぼくが演奏したのは合図出しだけ。持参したクラベス(拍子木)でカウントを叩いたのみ(笑)。
②
不思議なことに残念でも悔しくもなかった。もし音楽の神様なんてものがいたとしたら、これは思し召しなのだと納得した。カーネギーホールに宿る神は、準備不足を許さなかった。レンタルのセットで間に合わせるような即席ドラマーは、ステージに上がるべからずと、見えざる力が働いたのだろうなと。
③
いうわけで、カーネギーホールには、舞台袖であたふたしていた印象しか残っていない。
だけど、ここで自分の音楽が奏でられたら最高だろうな、待ってろカーネギーいつか戻ってくるからな、と途方もない夢をみていた。
もちろんその夢想は、叶えられぬままに終わってしまったが。
20年前の話だ。
④
ぼくは、いつも入口の所まではたどり着く。
ところが、門の前で立ち止まり、躊躇い、元いた場所へ引き返してしまう。
青春の門(笑)、音楽の門、文学の門が、ぼくを追放したわけではない。
ただ、勝手に怖じ気づいて、尻ごみしただけ。
天国の門は、こんな性分のぼくを迎えいれてくれるだろうか?
柵が十字架に見えたよ
愉快なエピソードを公開したつもりが、書いているうちに、どんどんこんな調子に変わってしまう。
自己言及の檻に囚われているのだろうか。
とにかく自意識が勝手に展開しはじめる。
だから、ぼくはブログをしたためる。
ここでは、自己完結が許されるから。
誰にも迷惑をかけず、エゴトリップも自由自在だ。