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鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

間奏曲:ブログに書くわけ

 

 Twitterが億劫になったわけではない。

 ただ、なんとなく、こういう話題はそぐわないのかな、と感じたのである。
 今朝がた、こんなツイートをした。
 NYCのカーネギーホールで、演奏したことがある。日米文化交流週間の記念公演で、ぼくは大正琴の伴奏でドラムを叩く予定だった。が、旅行会社の手配ミスで、ドラムセットが運ばれたのは終演の直後だった。ぼくが演奏したのは合図出しだけ。持参したクラベス(拍子木)でカウントを叩いたのみ(笑)。
 不思議なことに残念でも悔しくもなかった。もし音楽の神様なんてものがいたとしたら、これは思し召しなのだと納得した。カーネギーホールに宿る神は、準備不足を許さなかった。レンタルのセットで間に合わせるような即席ドラマーは、ステージに上がるべからずと、見えざる力が働いたのだろうなと。
 いうわけで、カーネギーホールには、舞台袖であたふたしていた印象しか残っていない。
 だけど、ここで自分の音楽が奏でられたら最高だろうな、待ってろカーネギーいつか戻ってくるからな、と途方もない夢をみていた。
 もちろんその夢想は、叶えられぬままに終わってしまったが。
 20年前の話だ。
 ぼくは、いつも入口の所まではたどり着く。
 ところが、門の前で立ち止まり、躊躇い、元いた場所へ引き返してしまう。
 青春の門(笑)、音楽の門、文学の門が、ぼくを追放したわけではない。
 ただ、勝手に怖じ気づいて、尻ごみしただけ。
 天国の門は、こんな性分のぼくを迎えいれてくれるだろうか?

f:id:kp4323w3255b5t267:20140722091344j:plain 柵が十字架に見えたよ

 愉快なエピソードを公開したつもりが、書いているうちに、どんどんこんな調子に変わってしまう。
 自己言及の檻に囚われているのだろうか。
 とにかく自意識が勝手に展開しはじめる。
 それは、Twitterというメディアでは、かなり異質なことのように思える。twitterは、ぼくの閉ざされた世界を開陳するには、あまりにも開かれている。
 だから、ぼくはブログをしたためる。
 ここでは、自己完結が許されるから。
 誰にも迷惑をかけず、エゴトリップも自由自在だ。