前掲『若いこだま』にかんして、付け加えるべきを書き記すことにする。
《ロックバンドにかんしておけるアンサンブルは、整合性を目的にしてはならない。》
そのことを強く訴えておきたい。
もっと率直にいうならば、
《積極的にはみだせ》
これだ。
全員が、一丸となって、なーんて高校野球じゃあるまいし、そういう姿勢で演奏に取り組んだところで、なにがロックだ、というハナシ。
全員が、合わせよう合わせようとするがあまり、腕が縮こまり、アンサンブルがこぢんまりと小さくまとまってしまう。
ロックバンドは、 合わせようとしちゃ、ダメだ。
ブラー『パークライフ』
このことに遅まきながら気づいたのは、バンド活動をやめて、ひとり多重録音に勤しみはじめてからだった。
ぼくはコンピューターによる自動演奏を好まないので、もっぱらマニュアル、つまり人力でしこしこと演奏していた。
するとどうでしょう、ぼくという一人が何回も繰り返し演奏するので、ノリが均一化し、なんとも面白みのないアンサンブルになってしまう。ベースもピアノもギターも、みな一緒のタイミングになってしまうと、一体感は確かにあろうけれども、表現としてはノッペリとして、奥行きに欠けたものになるのだ。
だからあえて、タイミングを外してやらねばならない。
意図的に、ノリをギクシャクとさせたり、いい加減に放りやったりしなければならない。
そうした「はみだし」を施すことによって、アンサンブルに生気が宿る。
表現とは、一筋縄ではいかぬものである。
〈この「はみだし」を意識的にやっていたのが、イギリスの「blur」というバンドだった。それ以前にあったかもしれないが、意図的なズラシを芸にしてみせたバンドの嚆矢だといえるだろう。
聴いて、頭がいいアンサンブルだなと思った。ヘタクソを、乱調を装っている感じ。その態度がひじょうにクールに思えた(余談だが、近年のblurは円熟した演奏を聴かせる。オトナの、アンサンブルを)。たぶん、それ以前の英米のバンドから、スケール感が失せていたから、その反動としての在り方だったのだろう。
人力で演奏する意義というか、醍醐味というか。
比して思えば、ニッポンのバンドの大半は、窮屈なアプローチをとっていた。
はみ出したアンサンブルは良くないという、迷信みたいなものに支配されていた。
それはアマチュアのみならず、プロの世界でも同様だった。
クリックに合わせなきゃいけない、100分の1秒の単位で。
いま思えばナンセンスの極みだ。
80年代の演奏がなぜ硬直化して聞こえるか、その原因はじつにそこにある。
バンドの演奏が緊張しており、柔軟性・弾力性にかけるからである。
それが克服されるのは、もっと後のことだ。
それぞれのバンドに、腕前の差がさほどあるとは思えない。モッズの演奏は実際にライブで観たが、いまの水準からしても達者なものだった。しかし、その三者を時間軸に沿って並べたら、差は歴然としていた。加藤氏はそれを、ミキシングの違いだとした。それもあろう。しかし、それ以上にぼくが感じたのは、アンサンブルへのアティチュードの違いだった。
後者になればなるほど、はみだしを恐れなくなっている。
腕が、縮こまっていない感じを受ける。
繰り返し述べるが、モッズの演奏が下手なのではない。
ただ、一丸となった演奏が、結果として、スケール感を損なわせている。
ロックという音楽におけるアンサンブルは、かようなプロセスを遂げて進化してきたわけだ。
ぼくはいまでもロックが好きだ。
好きな音楽ジャンルの最高位に位置する。
これからも多くのすぐれたバンドが、世に現れることを期待してやまない。
だから、若い世代にむけて、お説教好きなプロセスおじさんからの、これはアドヴァイスだ。煙たいかもしれないが、耳を傾けてほしい。
はみだすのを恐るな。
むしろ積極的に、はみだせ。
無理して、合わせようとするな。
合ってないのが当然だ、と思え。
最初は気持ち悪いかもしれない。カタチが整わなくて耳障りかもしれない。
いいのさ、それで。
デコボコだっていいんだよ。
たかがロック、さ。
のびのびと、自由闊達に演奏しろ。
なあに10年もやってりゃ、どんなにヘタクソなアンサンブルでも、熟成してまろやかになるから。
それはそれで、コクと深みのある、シブいアンサンブルだが、最初のうちからそんな境地を狙う必要はない。
聞き手が呆気にとられるような音を響かせろ。
とにかく、はみだせ。
ありとあらゆる意味で。
世界を、黙らせるんだ!