鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

スティーヴ・ウインウッドの海洋音楽/ウィンウッド・フェリー&パーマー①

 

ぼくがよく聴く音楽ジャンルのことをアメリカではクラシック・ロックと呼ぶそうだ。

古典的なロック、か。悔しいが、反論できないな。すでに評価の定まった音楽ジャンルだもの。モダンじゃないのにモダンジャズ、みたいなものだ。ニール・ヤングが好きな人はルー・リードもたいてい好きだし、ザ・バンドの悪口を聞いたことはない。ぼくはボブ・ディランを批判する文章に、お目にかかったことがないけど、きみはどう?

今回、自分の好きな革新的クラシックロッカー(笑)を三者とりあげてみた。英国産ブルーアイド・ソウルの代表格でもある(EL&Pならぬ)ウィンウッド・フェリー&パーマーは、どこに出しても恥ずかしくない名前であるから、若い衆はこの御三方をしっかり履修しておくように。

できれば、連続した記事として3つのエントリーをまとめて読んでいただければ幸いに存じます。

スティーヴ・ウィンウッド

英国を代表する名歌手である。10代でスペンサー・デイヴィス・グループにオルガン奏者として参加し、あまりにも歌が上手いため、リードヴォーカルの座を奪う。次いでトラフィックを結成、エリック・クラプトンブラインド・フェイスを組むなど、常にシーンの中心で存在感を示していた。ロック界きっての好人物としても有名。ぼくが初めてスティーヴの歌に接したのは70年代半ば、ツトム・ヤマシタの特集がNHKで放映されたときのことだ。歌い手の印象は記憶にない。ただ、天かけるような歌声の持ち主は誰だか知りたくなった。そこで“GO”をクラスメイトから借りて、ヴォーカルの名前がスティーヴ・ウィンウッドだと突きとめた。

翌週にはソロアルバムを入手した。

1976年発表のソロ第1作目である。アルバム2曲目のこれは、とりとめのない楽曲構成だけども、マルチプレーヤーであるスティーヴの弾くキーボードやギターと、ウィークスbとニューマークdsの複合的なリズムセクションの絡みは聴けばきくほど味が出る。

リラックスしながら緊張感を保つという音楽家の極意を彼はナチュラルに備えていた。

前掲の初ソロ作がすっかり気にいったぼくは、その前作(にしてトラフィックの区切りの作品)である『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』を入手、このB面1曲めをA面と勘違いしながら何度も聴いていた。ロスコ・ジーの跳ねまわるベースラインが秀逸なこのナンバーは、シンプルな構成ながら徐々に熱を帯びてくるスティーヴの歌がすばらしい。なんでだろう、ウィンウッドの出世作『アーク・オヴ・ア・ダイヴァー』で、いちばん好きな歌がこれなんだ。力みのまったくないのがいいのかな? 聞いてて完全な充足を覚える。ぼくは村上龍って作家がニガテなんだけど、彼が小説の中で「~ウィンウッドの海洋音楽が流れていた」と描写していた箇所が好きでね、海洋音楽、まさにその通り。

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ところでぼくは、1983年に催されたARMSコンサートの「スローダウン・サンダウン」を観て以来、スティーヴは世界でいちばんミニ・モーグシンセサイザーの扱いが巧いと思っているが、彼のシンセソロで出色の出来なのは、ジョージ・ハリスンの「慈愛の輝き」だと思う(数多くのレコーディングに参加していることも言い添えておこう)。

Sundown Slowdown - Steve Winwood ソロは2分37秒から

Love Comes To Everyone - 2004 Digital Remaster, a song by George Harrison on Spotify

マルチ・プレーヤーとしての集大成として『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』をほぼ独力で制作したのち、心機一転、1986年『バック・イン・ザ・ハイ・ライフ』のゴージャスな音作りでグラミー賞を獲ったスティーヴは、押しも押されもせぬ大御所になった。ぼくはそのころから積極的に聴かなくなったけど、1997年『ジャンクション・セヴン』は、スティーヴ流ソウルの完成形として、もっと評価されてもよいと思う。女性R&Bシンガー・デズリーとのデュエットなんか、当時は頻繁にかかっていたけれど、やはり他とは比較にならないほどの気品(ノーブルさ)に満ちていた。

さて、

スティーヴ・ウィンウッドYoutubeの著作物管理に厳しく、スマフォでレコードのオリジナル音源はほぼ聴けない。オフィシャルチャンネルには12の動画しかアップされていないが、中でもダントツの人気なのが、暖炉の前で歌われる「キャント・ファインド・マイ・ウェイ・ホーム」。


Steve Winwood // Blind Faith - "Can't Find My Way Home"

ブラインド・フェイスのオリジナルレコーディングよりも、エリック・クラプトンのライブ盤『ワズ・ヒア』を踏襲しているように思えるのはぼくだけか? って、これ前にも書きましたっけ。これは一種のゴスペルかなとぼくは思うのだけど、ベトナム戦争についての歌ではないかとの指摘もあった。ともあれ、暖炉の薪が爆ぜる音すら音楽に転化してしまうスティーヴは、神童とよばれた昔から今にいたるまでミューズの寵愛を受けている。

冒頭にも述べたが、スティーヴ・ウィンウッドはゴシップとは無縁だ。同業者も人格者だと口をそろえ、悪口の類はまったく聞かない。ロックミュージシャンにはめずらしいタイプだ。が、強いていえばその欠点のなさが欠点なのかもしれない。ロック・レジェンドに相応しい「物語」を創出しにくいところが。

加えて、パフォーマンスが地味だという印象もあった。派手なアクションとは無縁だし、いでたちも普段着そのままだし。でも、2017年発表のライブ盤を聞いてもらえば分かるけど、アラウンドセヴンティーとは思えないほどの声の張り、オリジナルキーのキープはさすがだと唸るしかない。おそらくスティーヴは「音楽そのもののハイクオリティであることが最大のファンサービス」だと心得ているのだろう。

ぼくはスティーヴ・ウィンウッドから「表現とは何か」を学んだ。若いころピアノを弾き語りしていたが、はっきり言ってスティーヴの真似っこだった(そしてもちろん、似ても似つかなかった)。けど、表現者としての在りようは今なお見習いたいと思っている。

ティーヴ・ウィンウッドの海洋音楽。

それはまさに海のように大きく、豊かで、穏やかで、しかも激しい。

年齢を重ねるとともに自然体がステージ映えするようになった、ニール・ヤングみたいな風貌した、スティーヴの今を掲げて、この稿の終わりとしたい。

YouTubeは削除されていました)
Steve Winwood - "Back In The High Life Again" (Live Performance)

「ウィンウッド・フェリー&パーマー②」に続きます。

 

ピッキン・アップ・ザ ・ピーシズ Pickin' Up the Pieces

 

昨年(2017)下半期で気に入った動画を拾い集めてみました。


1976 - Ugly, Dirty and Bad / Brutti, Sporchi e Cattivi

たとえば、このシーンに遭遇しなかったら、私が『醜い奴、汚い奴、悪い奴』というイタリア映画を知ることはなかっただろう。YouTubeは未知への入り口。


PJ Harvey - Dress - HD Live (V Festival 2003)

いい。

ポリー・ジーン・ハーヴェイは最高にすてきな女性。


Barney Kessel – Kessel's Kit (Full Album/Vinyl) 1969

私の好きなジャズギタリストで五指に入るバーニー・ケッセルの、イタリアのミュージシャンと組んだ楽しいアルバム。何も聞きたくないときに手が伸びる類のレコード。これはSpotifyのアルバムリストに今のところ見当たらない。が、入ったら差し替えます。

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こういうジャケットを見ると、とりあえずどんな音だか確かめたくなるのが人情ってモンですよ。ま、たいてい昔の天気予報で流れるような音楽だけど、この4枚はどれも当たり。とくに一番下のは名盤。そういや以前、知人のギタリストにデイヴィ・グレアムを聞かせたら、ガボール・ザボとの共通点(スケールとフレージング)を指摘していたっけ。


中学生日記op

チェンバロって鋭角的な響きが意外とジャズやロックに合う楽器だよね? 最初にそう思ったのはEL&Pの「タンク」と『中学生日記』のテーマ音楽。これ、あらためて聴くとピチカートファイヴみたい。


Cannonball Adderley Quintet feat. Joe Zawinul (Oslo, 1969) NRK (c)

ジョー・ザヴィヌル在籍時のキャノンボール・アダレイ5。親しみやすさと先進性が程よくブレンドし、とても聴き心地よい。


Super Rare Pink Floyd Atom Heart Mother clip 1971 Austria

好きなフィルム。ピンク・フロイド以外にもウェザー・リポート、フリードリヒ・グルダタンジェリン・ドリーム等が映る。ザヴィヌル自ら鍵盤楽器をセッティングするシーンも。みんなこうしてキャリアを積んでいったんだな。

私はフィルム(起こし)の粗い質感が好きなのだ、きっと。


Popol Vuh - Letzte Tage, Letzte Nachte

お花畑を駆ける若者ふたり。このフィルムを観るたび胸の締めつけられる思いがする。

モノクロってイメージを喚起するよね。


First Techno (Kraftwerk 1970) 

必見! クラフトワークの叩きだす直線的な音の刺激もさることながら、画面に映し出された若者たちの真剣なまなざしに胸を打たれる。しかも、この時点でトランス・テクノの殆ど全部の要素が出揃っている(47分の長尺版もあり)。

あと、モノクロで定期的に観たくなる映像は、第2期フェアポート・コンヴェンション。


Fairport Convention - POP2

ペッグb、マタックスdsのリズムセクションに、スウォーブリックvn、ニコルとトンプソンgという最強の布陣。演奏に比べると歌は「スロース」なものですが。


Fairport Convention-Dirty Linen (Glastonbury Live 1971)

リチャード・トンプソン脱退後のフェアポート 。グラストンベリー・フェスティバル出演時の模様。テンポ加速してパンキッシュなトラッドに。デイヴ・ペッグのピック弾きは「これがベース?」と呆れるほど速い。観客はノリノリで踊りまくる。みんなとても楽しそうだ。


Fotheringay Live at The Beat Club 1970

サンディ・デニー(下写真)関連で一番聴いたアルバムは(表絵が少女マンガみたいなイラストの)フォザリンゲイのファースト。フェアポートやソロ諸作より好きかもしれない。サンディ以外のメンバーも歌がうまいし、聴いていてイマジネーションが広がる。

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日本のフォーク・ロックシーンにも多大な影響を与えた、ポコは必須科目だと思う。彼らの代表曲「シマロンの薔薇」は、オリジナルの雄大さに軍配を挙げたい。エミルー・ハリスのきまじめな歌声も捨てがたいけど。ティモシー・シュミット在籍時の映像を。


Poco - Rose Of Cimarron

ポコは初期がとっても良いんだよ。そこはかとなくサイケの風味もあるし、バッファロー・スプリングフィールドイーグルスを結ぶミッシングリンクって感じ。69年の「ピッキン・アップ・ザ ・ピーシズ」よりインストルメンタルを。この快適な流れは後々ドゥービーズの『スタンピード』あたりに受け継がれる要素。

で、Pocoをカタカナ表記すると、なんかマヌケだよね? Devoをディーボ、も。

どうして80年代初頭のヘヴィメタルが嫌いだったのかを先日から考えている。ハードロックを私は人並以上に好きだったはずだ。シン・リジィ、フォガット、パット・トラヴァーズあたりのB級(ゴメン)を好んで聞いていたし、エアロスミスはもちろん、トミー・ボーリンのいた第4期ディープ・パープルも大好きだった。


Foghat Fool For The City

キッスも楽しかったし、元気が出た。私にとってハードロックはヘルシーな音楽だった。だからヴァン・ヘイレンもとうぜん歓迎した。コーラスがバッチリきまってポップだったら、たいていオッケーだった。演奏の優劣よりも楽曲自体のノリのよさに感応していた。けど、


Pat Travers - Live At Rockpalast - Boom Boom (Live Video)

パンクの台頭で無邪気に楽しむことができなくなった。長い髪がとつぜん時代遅れに感じて。偉大なレッド・ツェッペリンでさえ、プラントのイメージが古くさく思えた。そのように躾けられたのはメディアや広告の影響か、それとも自発的なものなのかは分からないが、私はそれから数年間、長い髪のロックを意識の外に追いやっていた。ライブエイドのクイーンの圧倒的なパフォーマンスとメタリカの登場までは。

私には野暮を承知で温和な音楽談義に政治を持ちこむ悪い癖がある。


Mauro Pagani - The big man (Official Video)

マウロ・パガーニ。プログレ好きなら知らないとは言わせない、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(PFM)にも在籍していた彼が、大統領になる前にドナルド・トランプを思いっきり風刺してますね。や、痛快だわ。


I THINK IT'S GOING TO RAIN TODAY - Randy Newman (BBC Live 1971)

人の親切心が溢れだし、今日は雨が降りそうだ。

寂しい、さびしい。

ぼくは街角に空き缶を蹴とばす。友人に、するように。

「悲しい雨が」ランディ・ニューマン、ファーストアルバムに収録。
誤訳のしようがないほどの強烈なフックだ。こんな歌詞、他に誰が書けるだろう。


Harry Nilsson - Without Her (1971)

ハリー・ニルソンといえば「ウィズアウト・ユー」が有名だけど、私は「ハー」の方が好き。以前は弦楽四重奏をバックのオリジナルよりもブラッド・スウェット&ティアーズのジャズボッサアレンジが好みだったけど、この映像を観たら、やっぱり本家の歌が最高。


Santana ~ Gypsy Queen } Savor } Jingo

サンタナの凄みを知るに最適な映像。カメラは集中する奏者に接近し、目もと口もと手先指先の動きを捉える。この音の渦が世界を熱狂させたのだ。

クラシックもまた「芸能」であると、私は思うのだよね。アーティストとしての真価は時が審判を下す。今を体現する三人は、どうか?


7 Dynamic YUJA WANG Finales!!

最近バズっているユジャ・ワン。彼女の「どーだ、このヤロー、参ったか」的なフィニッシュは、とり澄ましたクラシック界に風穴を開ける「突き破り」の爽快感がある。ただの早弾きではない。


Zubin Mehta with Khatia Buniatishvili - Schumann: Piano Concerto in A Minor, Op. 54

殿方の視線を泳がせる、グルジア出身のカティア・ブニアティシヴィリ(あ、今はジョージアというのか)。こないだアップされていた仏のテレビ番組では、プリンスやデヴィッド・ボウイまで弾いていたけど、彼女がマルタ・アルゲリッチのような大輪の花を咲かすかどうかは未知数。

ピアノって怖い楽器で、人の数だけ意見が異なり、好き嫌いがもろに出る。私はエレーヌ・グリモーの容姿をすてきだなと思うけど、彼女の演奏は1分も聴いていられない。今どきの録音の硬い音質のせいなのかもしれないが。


Chostakovitch - Concerto pour violon n°1 de Chostakovitch - Lisa Batiashvili (répétition)

いまエフエムでショスタコ入門に最適なヴァイオリン協奏曲が流れている。ヴァイオリンだと今はメディア戦略に長けたヒラリー・ハーンが人気を博しており、比べるとリサ・バティアシュヴィリはややインパクトに欠けるものの、聴いていて和やかな気持ちになる音色だ。今後よりアートの熟成しそうな予感を抱かせる。

先日の「ラスベガス・ストリップ銃乱射事件」で思い出した映画が『ナッシュビル』。


Nashville, (1975), by Robert Altman. Soundtrack: "I'm easy", performed by Keith Carradine. HD

映画の中で唯一いい歌だなと思っていた、この歌のイロニーに気づいたのはごく最近。

米カントリー音楽って、徹底的に明るいと、何故かあべこべに不気味な印象を受ける。


Starland Vocal Band - Afternoon Delight (1976) Uncut Video

番狂わせで76年グラミー新人賞を授かったために色眼鏡で見られたグループだけど、これ、そんな言われるほど悪い曲かなあ。プログレッシヴ・カントリーとでも申しましょうか、あらゆるパートが綿密に計算されている隙のなさが当時隆盛のABBA(アバ)っぽくもある。と私は好意的に捉えたけどね。

気が滅入った時には、ウィルコ・ジョンソンの鋭角的な爪弾きを観るに限る。


DR FEELGOOD LIVE 1975 TV SHOW - FULL CONCERT - FEAT. WILKO JOHNSON

この、ウィルコ・ジョンソンと同じ色した・カッティングに適した、トーカイ製のテレキャスターモデルを持っていたんだけど、残念ながら紛失してしまった。


Dr Feelgood - Live At Southend Kursaal (15 minutes of magic in the 4 songs)

グレイト! としか言いようがないでしょ、こんなの見せつけられたら。バンドの一体感も凄いけど、リー・ブリローの野太い声が、もう。


Ian Dury and the Blockheads - Blockheads, Live with Wilko Johnson (Game of Thrones & Dr Feelgood)

8小節、スリーコードをひたすら繰り返すだけの楽曲構造だのに、なんと豊かで知的な音楽だろう。

だけど、あーきりがないぞコレは。お腹も減ってきたし、最終コーナーに入ろうか。


Can't Turn You Loose - Otis Redding 

音楽の、人の、底しれぬパワーを感じる。歌はもちろん、ドラムの推進力はどうだ!

ところで、先日ひさしぶりに映画『ブルース・ブラザーズ』を観たんだ。

もう何度目だろう? やー楽しかったなあ。

早くも一周忌が過ぎたけど、キャリー・フィッシャー大好き! 

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ちなみに先日、ツアー活動から引退することを表明した、ポール・サイモンの「ハーツ・アンド・ボーンズ」(名曲だ)は、キャリー・フィッシャーとの短い結婚生活が歌詞に反映している。


Paul Simon - Hearts and Bones (Carrie Fisher tribute)

ポール・サイモンほど循環コードの構造と、そこからの逸脱を考え抜いた人はいないと思う。

では、また気が向いたら半年先に続編を。

 

 

 【関連記事】

○○性を持ちこむべからず

 

私は目下ささやかなコミュニティに属している。そこには多彩な顔ぶれが揃っているけれども、氏素性は知らない。居心地は悪くない。そこには不文律があり、それさえ守っていれば誰もが平等で、平和な関係を築くことができるのだ。その暗黙のルールとは、

政治を持ちこまないことである。

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そこで私は、かなり節度をもってふるまっている。猫をかぶっているといってもいい。ただ趣味のことばかりを語っている。たとえば、

ミック・ジャガーって最高にセクシー」とか、 

The Rolling Stones - Hot Stuff - OFFICIAL PROMO - YouTube

ジューダス・プリースト、昔キライだったけど最近は意外と好きかも」とか、

Judas Priest - Breaking The Law - YouTube

ま、他愛ないおしゃべりに興じているわけだ。

その平和なコミュニティーで、場を波立たせるような言動は各自が慎んでいるけれど、発言の端々から支持政党のうかがい知れるときがある。

クラシックのピアニストについて、私とよく会話している婦人は、おそらく霞ヶ関界隈に深くかかわっており、たまに現政権寄りの姿勢を見せる。あきえさんの着付けにケチをつける奥様方を、あら貴女達の躾のほうがなってないわよと憤りをあらわにする。でも、あからさまに擁護はしない。控えめに、数十年先を見据えた仕事だと政策を好意的に評する。そのころ私はもう生きてはいないけれどもね、と自嘲を含ませつつ。

私は異見を唱えはしない。聞いていなかったことにする。興味ある話題にしか反応しない。しなくてもよい、がルールなので。

ところで。

私より二まわりは年下の、やんちゃな若い男性がいる。やんちゃとはいえ、乱暴狼藉をはたらくわけではない。ただ意図的に粗暴な言を弄する。人によっては煩く感じるのだろうが、私は彼の粋がりの下に、そこはかとない知性の垣間見える瞬間があって、とても面白く感じた。余所では人気者の彼が、なぜ私を気に入ったのかは分からない。けれども彼も私の存在を意識しているのは確かで、ときおり意見を拾いあげたり、声をかけたりしてくる。

「あの、くだらない話ばかりですみません。いつでもオミットしてかまわないですから……」

と低姿勢で来られると、まんざらでもない私はつい〈愛い奴〉と思ってしまうのだ。

「お気になさらず。クラクシオンよりかクラクチオンのほうが__らしかったかな? 今後も屹立しまくってね」

なーンて隠語を使ったりして。そんなやりとりが愉快でたまらなかった。

 

そんな彼の内心も、だんだん読めてきた。じつは育ちがよく、一流大卒で教養も備え、安定した企業に勤めているらしい彼は、仕事上での些細なトラブルや友人との感情のすれ違いなんかを、脚色することなく愉快なエピソードとしてコンパクトにまとめ上げる才能があった。けれど好不調の波はあり、不機嫌を露わにし、社会的弱者や近隣国への不快感をそれとなく仄めかすこともあった。私はとくにたしなめるつもりはなかった。際どい軽口が彼の身上であり、皮肉交じりで社会一般の常識を鼻で笑うような姿勢が大勢にウケているのだから、その評判を妨げるつもりはなかった。

が、

あれは年が明けてすぐ、ベテランの漫才師が顔を黒く塗る今さらな芸で内外から顰蹙をかっていた頃のこと。彼はこんなことを言った。

「『〇〇差別だ』って言ってる人の顔は少し口角が上がってる気がして嫌なんだ。高揚感に心をおかしくされてしまった人が、何を見ても差別だと判断したり、過剰に権利を守ろうとしたりする」

皮相なものの見方だなと思っていたら、次いでこんなことも言いだした。

「テクノロジーを信用していないマン(たぶん経済評論の傍ら恋愛指南講座も催している数奇な御仁)を見て『たかが電気の為に命を危険に晒すのか』とiPhone見ながら演説した坂本龍一を思い出した」

ファンではないけど、その言いぐさに引っかかるものを感じた私は、

「教授の値打は大企業のコマーシャルにしれっと出演しつつ反戦・反原発を唱えるところ。そこの矛盾を突いても詮ない。貧しく無名の誰彼が同じことを訴えても、誰も何も批難しないでしょう?」

やんわり釘を刺した。しばらく彼は黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。

太陽光発電のコマーシャルにも出ていますね。話題にはならないかもしれませんが原発反対だたかが電気だといいつつ電化製品触ってたら、僕はそれが素人でもいじってしまうと思います」

ふうむ。そこで私は直截に訊ねてみた。

「えーっ? 原発反対する人は電化製品使っちゃいけないの? 有名人ならいじられても仕方ないのかもしれませんが、それは違うと思う」

すると彼は間髪入れず、

良い悪いの話は初めから全くしていません。切り取った絵面がギャグだと言うお話です。眼鏡どこ?と言いながら眼鏡かけてる人と同じです」

と、きわめて冷静かつ明瞭に私の問いを撥ね退けて、

「教授がいじられてる画像ありました」

スマフォの画面を読みながら街頭演説する坂本龍一の写真を、どこからか拾ってきてみせた。

ばかばかしくなった私は、それ以上追及するのをやめた。ただ、彼の「良い悪いの話は初めから全くしてません」というぶっきら棒な答えを反すうしては、口の中に苦い味が広がるのを感じていた。

 

彼にとって「反戦」や「反原発」といった鍵カッコは大した意味を持たない。それが社会にとって必要か否か、善か悪かを問うているわけではないというのだから。それよりも彼の指摘したい事がらは、「反対」を唱える者たちの立ち振る舞いの滑稽さ、なのだった。そして自身の男性性が繰りだす「くだらない」悪ふざけに水を差す向きに対しては、対抗心と嫌悪感を剥きだしにしてしまう。つまり、彼が指弾する対象は「僕の表現の自由を脅かそうとする連中」なのだった。

その気持ち、分からなくもないけれど……

まもなく彼は「アベ政治を許さない割には自分が列に割り込むことは許すジジババ」という、世代間対立を助長するようなスローガンに、いいねと賛同していた。そのことも私をガッカリさせた。

印象論じゃん、ガキっぽいしぐさだと思った。

 

先週、彼の好きなバンドのドラマーが、ファンの女の子に蹴りを入れて、逮捕されるという事件があった。インターネットの世界では「ヤツは昔っからヤバかったんだからこれしきのことでガタガタ騒ぐな」という意見が目立った。彼もまたドラマーを擁護し、どんなにライブパフォーマンスが凄かったかを力説していた。

私は彼の小児性に些か辟易していたから、さめた口調で、

「ひじょうに優れたビートを叩く方だと認めてはいるけど、乱暴なのはごめんこうむるわ」

と突きはなした。

「不正を許しておいて、それが現実だろ? って開き直るの、みっともないし、カッコわるいよ」

 私は、平和なコミュニティーに政治を、正確には政治性を含ませたことばを、持ちこんだのである。

それから二、三日、彼は姿をくらました。

 

私は若い人の声を聞くのが好きだ。彼らの、とくに男性のことばの中には、宝石のように純粋な輝きと、触れれば散らばってしまいそうな脆さと、固定観念に縛られない柔らかさと、安易に世界とは和解しないぞという融通の利かなさとが同居していて、そこが私のような、感性の枯渇した年寄りには眩しく映る。

“君の支持率は現在9,500p、もうすぐ10,000pに届く勢いですね。「アルファ」と呼ばれる目前だ。ただ、老婆心から言わせてもらうと、アルファになってもその柔軟な感性を曇らせてほしくない。三面怪人やテポドンパンダ等のヴェテランのように、薄汚れた皮肉と賢しげな冷笑に塗れてほしくないんだ。それはただの遊びで、束の間の戯れだとは百も承知だけれども、真剣さが介在しない遊戯なんて、退屈しのぎにもならない空疎な暇つぶしでしかないでしょう?

不正を見逃すな、巨悪に立ち向かえ!なーンて無理難題は言わない。今までと同じく軽妙洒脱に、身の丈に合った素朴な感想を発信すればいい。

けど、君が常々苦々しく感じている「抗う人びと」が、いったい何に抵抗し、何を訴えているのかに、もっと耳を傾けてほしいし、できれば彼・彼女らが反対する理由は何なのかを真剣に考えてみて。

嫌だな。の段階で思考停止せずに、もう一歩踏みこんでほしいんだ。”

 

政治性を持ちこんだ私は、穏やかなコミュニティの秩序を揺るがしたのかもしれない。遊び場から放逐される可能性を想像すると辛くなる。

でも……

一人の有望な若者がダークサイドに堕ちないよう諌めるために、お節介だと思われようと、もうしばらく私は、ここに留まるつもりだ。

さて。

神経戦の後も、あい変らず彼は私の話に耳を傾けている。聞いていますよ、のサインを欠かさず送り続けているが、はて、いったい彼は私に何を求めているのだろうか?

私は殊更に女性性を持ちこまぬよう腐心したつもりなのだが……

註:この記事はフィクションです。