鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

2016年11月のMedium

 

 

たくさん投稿していると思いこんでいた11月だが、どうやら錯覚だったみたいだ。

たちまち

会話していて、おやっ?と思うときがある。相手が、日ごろ自分の使わない言いまわしで話したときに、とりわけそう思う。

今しがた使った〈とりわけ〉がそうだし〈今しがた〉もそうだ。私はそれら耳慣れないことばの響きに魅了され、同時に文字面を想像する。そして後々自分の書く文章に用いようと〈サンプル&ホールド〉する。ボキャブラリーを増やすのが目的というよりも、自分にとっての新語を使ってみたら文体がどう変化するかに興味があるのだ。

昨日は〈たちまち〉ということばに反応した。「ちょっと待て、そのタチマチって最近あんまり使われないね?」と、話題を明後日の方向へ逸らしてしまう私。会話の流れを遮るのはいささか気がひけるが、性分である、なかなか直らない。

たちまち【忽ち】(一説に、原義は「立ち待ち」、立って待っているうちの意)にわか。すぐ。急。早速。「ーーのうちに」「ーー売り切れる」(広辞苑

なるほど漢字をあてると「忽ち」になるのね。と、いちおう辞書をあたって使い道を間違えないよう気をつける。たまに適切でないところに覚えたてを無理やり挿入して失敗することも〈ままある〉からだ。

「あー、たちまちをたちまち使ってみたい」みたく、不自然な使い方をして恥ずかしい思いをする。それもまたインターネットへ気軽に文章を投稿できる時代ならではの悩ましさではありますが、〈ともあれ〉【名・副】の扱いには要注意。

おそらく数日以内に私は〈たちまち〉をそれとなく文中に紛れこますだろう。見つけがてら、ご笑読あれ。(11月6日)

註:あと、〈まちまち〉とか〈めいめい〉とか〈思いおもいに〉とか、ね。 

 

私、クルマを買いました。

なにしろ変わったデザインのクルマです。一番特徴的なのはフロント部分。縦長のヘッドライトが目立つ。私はクルマ事情に疎いので、最初に見たときは外国車か?と思いました。でも、国産車なんです。

註:フロント部分の写真は、google検索すると特徴がありすぎて、やたらと目立つから割愛しました。

WiLL Cyphaという車種です。年式は2004年。もちろん中古車です。今は製造されていません。トヨタ製ですがトヨタのエンブレムはどこにもありません。WiLLシリーズは今世紀初頭に3車種作られましたが現在いずれも廃番です。

ボディカラーはホワイト。蛍光ペンみたいな黄緑やオレンジは街中でもたまに見かけますが、白いウィル・サイファは逆に珍しい。50000㎞しか走っていないし、エンジンもきれいでしたから、購入するのに躊躇いはありませんでした。

隣県まで用事があったので、昨日さっそく雨の高速を走らせてみたのですが、車内は思ったよりも静かだし、馬力は過不足なく車体の安定性も良いので、走行中ストレスを感じることはありませんでした。燃費も(ハイブリッド車とは比較になりませんが)悪くなさそうです。ヘッドライトが暗いという評価をネットで見たけれど、明るさは十分だと思いました。

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しかし、見ればみるほどまん丸です。曲線が主流の今においても、これほど円さにこだわったクルマも稀ではなかろうか。だいたい私は流体力学に則った昨今の流麗なデザインに反感を抱いていましたが(過去記事『SAにて』を参照のこと)、ここまで徹底して丸いとなると、その遊び心満載の意匠があべこべに面白いと感じるのです。

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私にとっては高い買い物です。買ったばかりが最高潮だとの意見もあります。まあいずれいろんな不満が出てくるでしょうが、今の時点では大満足です。何せ自分名義のクルマを所有したのだから手入れしながら大事に乗るつもりです。(11月9日)

https://open.spotify.com/track/6rftHSjgpr0FfoQ6wS0aQD?si=_uuCgsQXQF2TVOmOhInOPQ

註:じっさい走らせていると、いろんな箇所の不調に気づきます。が、不満はとくにありません。来月(10月)には車検も通します。身の丈に合ったクルマですから。

 

レナード・コーエン死去。

レナード・コーエンは旅立ったのだ。カナダ国籍であることから、ユダヤ人であることから、あらゆる約束から解放されて、アメリカの行く末を見届けつつ、いま、静かに旅立ったのだ。

【関連過去記事】

註:レナード・コーエンについては、私の他の記事にも名前が散見するが、古井由吉の小説とならんで、未だに解けない難問のようなものである。

 

きざ・キザ・気障

私は自分の書いた文章を一歩ひいて眺める癖がある。ついさっきもツイッターで「忍耐力に欠ける」よりも「堪え性のない」の方が良かったかな、と言い訳めいた訂正を投稿したばかりである。

自分でもキザだなと感じるときがある。先日、私のブログ記事を「カッコいい」とほめてくださった方がいた。皮肉ではないと思いたい。私は現実の冴えないイワシさんよりも数等カッコよさげに繕って書いている(ように思えてしまう)。

文章に過度な修辞は禁物だが、それでも私の文には余計な修飾が目立つ。きざは「気に障る」という漢字を当てるが、修飾過多に自分でも気に触ることがある。

Mediumを始めたころ私は「私」を主語に統一すると決めた。目的は「よりソリッドにするため」だった。喋り口調で書くと、どうしても内容がバラけてしまい、焦点の絞りきれない感じがするのだ。が、最近ではずいぶんくだけた文体になった。肩の力が抜けたのかもしれない。幾つか決めた縛(いましめ)は、とうに解いてしまったが、一つだけ、今なお遵守していることがある。それは政治性を詳らかにしないことだ。リベラルな傾向は隠しようがないにせよ、党派性は伏せている。それは自分と違う考えに触れたいがゆえにである。似た考えのアカウントの意見で埋めつくされツイッターで、それはもはや不可能に近いので。

さて、ここまで書いた文を再読してみると、やはり気障としかいいようがない。スタイリッシュを目指しているのではなく、むしろ内心を忠実に掬いあげて表現しようと努めた結果なのだが。喋るような書き方では思考を十全に反映できないような気がする。私の書く文章はキザだけど、断じてカッコつけではないことをご承知おき願いたい。

私の癖のある文体は、おそらく昭和の小説(戦前と戦後まもなく)と、平成に乱読したノンフィクションに影響を受けた故だと自己分析している。(11月15日)

註:※いま思いかえすと、ポンピィさんの寄こした感想は、やや皮肉まじりだったな。 

 

この世界の片隅に』を観ました。

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熊本の新市街サンロードにある電氣館は老舗なんですが、シネコンではかからない映画が多く上映される結構な映画館です(例えば昨年は三上智恵監督の『戦場ぬ止み』を観た)。今日は話題のアニメーション映画、『この世界の片隅に』を観てきました。

シン・ゴジラ』『君の名は。』と話題の作品を続けざまに観るなんて、けっこうミーハーだなと自分でも思いますが、「のん」こと能年玲奈が主役の声を演じているとあらば、駆けつけないわけにはまいりません。

昨日クルマの中で岡田惠和のラジオ番組を聞いていたら、連ドラの話題でゲストの薬師丸ひろ子が「主役の女のこを中心に役者とスタッフが一丸となって〜」と語っていた。なぜ能年玲奈(のん)の名前を出さないんだろう。とっさの判断かもしれないが、賢い薬師丸さんの配慮はどこに向けたものなんだろう。(Twitter

些細なことかもしれませんが、能年さんをシカトする芸能界の問題の根は深いなあと思ったばかりなので、早い話が応援したくなったんですよ。マスコミが無視したくてもできないくらいに映画が大ヒットすればいいなとの思いがあったのです。

【追記】のんさん、大輪の花が開いた

さて、肝心の映画の内容ですが、これはもう、ぜひご覧くださいと言う以外は思いあたらない。前に挙げた2作品もそれぞれに見どころがあり、面白かったし考えさせられたけど、この世界の片隅に』を観終わったあとの満足感は比べものになりません。冷静になって批評する気にならないし、欠点を挙げる気にもならない。私がどれほど物語の中にのめり込んでいたかと言うと、始まってからしばらくすると、主人公「すず」を「のん」が演じていることすら、すっかり忘れてしまった。つまり、客観視できないくらい集中していたのです。

いや、一度だけ我に返った瞬間があって。それはある重要な場面にさしかかったときに地震が起きた。後で聞くと震度2、震源地は熊本駅あたり(つまり電氣館にほど近い)だったそうですが、一瞬「音響効果か?」と勘違いしました。シネコンみたいなドルビーシステムを持たない小さなハコだと言うのに。しかし震動は見事に映像とシンクロしていたのです。

私は原作者である、こうの史代氏の淡い画風があまり得意ではありませんでしたし、コトリンゴさんの音楽も好みではありませんでした。けれどもその先入観は刷新されてしまった。こと音楽には喧しい私ですが、とくに万華鏡みたいに音の散らばるエンディングの歌には脱帽でした。

客席を見渡すとご高齢の観客が半分くらい。若者はちらほら。できれば武器や船舶に詳しいマニアックな方々にこそ観てもらいたいと思いました。そして熊本でも満席になることを切望します。なぜなら焼跡の果てしなく広がる光景は、私たちが四月に目のあたりにした崩壊の現場と同一のものだから。登場人物の感情を、痛みを慈しみを、今の熊本人は誰よりも理解できるはずだから。(11月17日)

註:※この映画の受容のされかたにかんしては、のちにずいぶん批判している。簡単に説明すると「戦時であっても幸福はあったのだ」という論に回収されるおそれがあり、後日その懸念を「はてなブログ」の記事に書いた。 

<だが、その素朴な筆致が「美しく」解釈されてしまう危険性をはらんでいるという点は、指摘しておいたほうがよいかもしれない。>と私なりに警鐘を鳴らしたが、残念ながら、その懸念はあたってしまった。

*ところで、上掲の記事に、冒頭の「たちまち」が紛れこんでいるよ。

 

忘れものです。

雨の日の公園はお客さまが激減するので昨日は忘れものの整理をしていました。数年前の遺失物ですが、もったいないなと思いつつも、傘やタオル等がほとんどなので、迷わず分別&処分しました。

が、

どうしても捨てきれなかったのが、このぬいぐるみです。持ち主の可愛がりようが想像できるくたびれかたですが、見ればみるほどせつなくなってしまう。おまけに背中のスイッチに触るとワンワンと鳴く。もう胸キュンですよ。

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よほどこの仔を持って帰ろうかと思いましたが、それはルール違反ですので、私はこのワンちゃんを、受付のマスコットにしようと決めました。今はカウンターに鎮座まします。なお、心あたりある方は遠慮なくご連絡ください。持ち主の元に帰るのが一番ですから。(11月19日)

註:情が移ったぬいぐるみは今もカウンター内側の「ワンワンのおうち」にいる。

 

ドライフラワー

公園のバラの花は来年に向けて剪定してしまいました。いま観に来られてもバラ園は殺風景です。申しわけありません。

受付の花瓶に飾った花はドライフラワーにします。ずぼらな私は適当に束ねて壁に吊り下げるだけ。ホラこんなふうに。

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乾燥した部屋だと、一週間もすればいい感じのドライフラワーが仕上がります。バラ以外の花もいろいろ試してみましたが、あまり上手くいかない。枯れる前に花びらが散らばってしまうのですね。あと、バラでも黄色や白だとあまり冴えません。色褪せたらくすんだベージュになる。それはそれで趣あるけれど、やはり深紅の花びらが一等きれいです。

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♪ きみの希望は吊り下げられて、触れては散らばるドライフラワー

月末は何かと忙しい。軽いエントリーでご勘弁ください。(11月30日)

註:こうしてふり返ってみると11月は亡父の四十九日もあったせいか、Twitterはてなブログとも低調だった。なお「♪ きみの希望は~」は私が二十歳のころに作った歌詞。

 

2016年10月のMedium

 

10月から年末にかけては、たいした記事は書いていないが、私が最もMediumに耽溺した時期だった。

 

Trailer 壮大な予告編

観た印象をパラフレーズに記録する。
  • 時間軸が錯綜するが、混乱するほどではない。筋書きは追える。
  • たとえば、スマフォの機種でいつ頃の話かが分かる。若年層の観客にも理解しやすいよう丁寧に設定されている。

  • パラレルワールドのうちで、いちばん幸福な結末が最後に選択される。

  • もちろん、物語の原型にそれほど多彩なヴァリエーションがあるわけではない。
  • みずうみ。彼岸と此岸を隔つ結界。
  • 夢の反復。
  • 似たような夢を私もよく見る。険しい山を登り、湯釜を一周する、夢を。
  • 典型的だな。
  • 最大公約数?
  • 批判的に観たいわけではない。むしろ積極的に加担したくなる、装置。
  • 神話づくりに参加する感覚の観客の支持と協力によって成立する構造。
  • それを予定調和と呼ぶのであれば人口に膾炙する物語の殆どがそうだ。
  • が、しいて欠点を挙げるなら、
  • アニメーションは汚さを描きづらい。壁のしみさえ鮮やかに彩られる。
  • 田舎の遣る瀬なさがあらかじめ排除された、美しき郷のイメージ。
  • 聖域。都を維持する犠牲としての。
  • クライマックスでタイトルが映しだされたのち、暗転のエンドロール。
  • 誰かが「壮大なミュージックプロモーション」と評していたけど、私には壮大な予告編(trailer)のように思えた。

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屋外に出た瞬間に見た光景。空の青、雲の影、午後の陽ざしの眩しさに、現実への帰還を意識した。

タイトルに収斂する記事=物語の回収。

(10月1日)

註:大ヒットしたアニメーション映画『君の名は。』の感想(例によって娘あて)。

 

秋空の下の釈迦の仰臥f:id:kp4323w3255b5t267:20170909154415j:plain

各種申請のために本籍のある阿蘇市に行ってきた。熊本の震災後、2回目である。

大津町からミルクロードの蛇行する坂道を登り、二重峠を越え、外輪山をなぞりつつ、大観峰から阿蘇谷に降りる。

震災前は立野を通る国道57号線を利用していたが、震災以後、不通のままだ(JR豊肥線肥後大津駅で止まっている)。わが家から阿蘇市まで約45分で到着していたが、今はその倍の、片道1時間半はゆうにかかってしまう。

外輪山線を走るのは、この季節まさにサイコーなんだが、今日のように所用があって時間に余裕のない時には、風光明媚を楽しむ気持ちになれないものだ。それにミルクロードの坂道は急な上、見通し悪いヘアピンカーブの連続するワインディングロードである。道幅も狭いので10tクラスのトラックが登坂するには厳しく、すぐに先が詰まってしまう。エンストでもしたらさらなる渋滞は必至、積載量オーバーで横転したトラックもあるというし、これで冬ともなれば路面は凍結するので、いずれ阿蘇地方が再び陸の孤島と化すのは目に見えている。

もちろん立野(阿蘇大橋が崩落した辺りだ)の地質調査および無人の重機による地滑りした法面の整地も急ピッチで進められているので、来年初めには国道57号線の本格的な復旧作業に入れる見通しではあるとのこと。しかし阿蘇に住まう人たちの不便は当分、いや数年は続く。動脈の細まった阿蘇ライフラインを、国と自治体は、今以上の予算と情熱をかけて取り組んでもらいたいと切に願う。

外輪山線の草原は今、群生したススキの真っ盛りだ。銀色の穂がそよぐ風に波のように揺れる壮麗な風景を写真に収めたかったが、生憎そんな余裕がなかった。途中に休憩した北山展望所から望む、阿蘇五岳の一葉のみでご容赦願いたい。(10月6日)

註:大観峰まで行かず、二重峠からは赤水へ下るのが一番近く、一般的なルートである。※

 

六脚テントの話

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私の職場は多種多様のイベントが開催される。気候のよい秋ともなれば尚更、マルシェ(雑貨市)から幼保の運動会まで六脚テントはフル稼動の状態である。

昨日はA地点からB地点まで、200mあまりの距離を移動する運びとなった。作業に携わる人員は8名。33脚を午前9時から12時までの間に移し終える計画である。

船頭多くの喩えの如く、如何にすればより効果的かの意見がそれぞれから出されたが、既に組まれているテントをそのまま運ぶのが得策との結論に至った、が。

8名いるのだから4名ずつの2班に分かれて四隅を持って運ぶのが良い、との意見が多数を占めたので、作業当初は4名で6脚テントを移動したのである。

ところがメンバーの体力差・体格差(身長や腕の長さで脚を持つ位置も変わる)を考慮に入れてなかったため、次第に移動する速度が鈍くなってきた。六脚テントは重い。1人にかかる過重は相当なものだ。日ごろ事務職などで作業に慣れない者、つまり私のように軟弱なヤツは、握力がなくなり、腕が上がらなくなった。

「そりゃ気合いが足りん」とか「根性ば出さんや」と囃したてていた腕自慢たちも、他が力を出せなくなるにしたがって自分側にも過重が寄りかかることに気づいた。結果、4人体制はかえって非効率ではないかとの意見が多勢を占めるようになった。

休憩を挟んで作業の後半は六脚をそれぞれ1人が担い、6人体制で移動したが、その方がよほど捗った。そしてどうにか午前中の間に無事33脚を移し終えたのである。

能率よく仕事を進めたい、手っ取り早く済ませたいとの思いが高じるあまり、一人に多くを担わそうとする。それが却って作業効率を低下させる事態を招く。頭数は必要である。人件費を削減し、人一人に過重な負荷を与えることで乗り切ろうとする企業経営および労務管理のあり方は再考されなければならない、と身にしみて思い知った一日でした。

あー今朝は筋肉痛たい。(10月12日)

 

ローズマリー・ハークネス

秋のバラ祭の季節がやってきた。

けれども今年の秋季は生育の状態がよくない。8月以降の雨天続きや台風のせいもあるだろうが日照時間が足りなかった。地震のせい?まさか。いずれにせよ只今二分咲きといったところだ。

お客さまは満開に咲き誇るバラ園を期待して観に来る。だが、その期待に応えられるほどの咲き具合ではない。花の見ごろはいつごろですかとの問いはいつものことだけど、こればかりは、来週には満開になりますと胸を張っていえない。

しかし言い訳めくが、ポツポツと咲くバラの花にはなんとも言えない奥ゆかしき風情がある。絢爛と咲き乱れるバラの香りにむせぶのも一興だが、今年はささやかな花のメルヒェンでご勘弁願えないだろうか。

虫のいい話だとは思うけれども、真夏のさなか除草剤などを使わず雑草を除き、剪定していた管理スタッフの労を思うと、とてもじゃないが「今秋のバラは出来が悪い」の一言で切って捨てられない。

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ほら、ローズマリー・ハークネスは蕾でもきれいでしょう?(10月14日)

註:職場にかんする記事が二つ続いた。父を喪ってからは仕事で気を紛らわしていた。

 

【NEW!】

註:このアーカイヴ作業をしている最中、スピンオフ気味に書いた記事です。

 

文学の側からの評価を求む

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

註:Mediumから「はてな」に複写し、大幅に加筆したので、過去記事を参照のこと。

 

 Jeux de eau 

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「あの、失礼ですが……」

男の唐突な問いに女は首を傾げた。

「ひょっとして、ピアノを弾いていらっしゃる?」

「ええ」

女は目を丸くした。

「むかし弾いてましたわ。でも、なぜ、それを?」

ご存知なのかしらとの女の口調に、咎める気配はなかったけれど、男は少し焦ったような口調になった。

「あ、いえ、その、水の戯れ……」

「は?」

困惑気味の表情を浮かべる女に、男は不器用な口ぶりで理由を説明しはじめた。

「モーリス・ラヴェルの『水の戯れ』、ですよね?だから、ピアノを弾かれるのかなと思ったんです」

「確かにラヴェルは好きだけど……」

女は怪訝な顔をしたまま、上目遣いに男を見た。

「どうして分かったのかな?」

「だって、jeux de eauってアドレスに書いてあるから」

「ああ、メアドを見て分かったの?」

女はころころと笑った。

「よくご存知なんですね」

「いえ、たまたまです」

本当は、分からなかった。フランス語だろうと見当つけただけだった。その文字列を検索にかけてみて、それがラヴェルピアノ曲のタイトルだと知ったのだ。

「今朝もラジオでかかっているのを耳にしました。だから、分かったのかもしれない」

「音楽に、お詳しいのね」

「そんなことは……」

「学生の頃にね、弾いたことがあるの」

女はくすりとほほ笑んだ。

「でも、今はもうムリだな。練習してないもの」

伏し目がちになって、ため息をつくと、胸もとに抱いた赤子をそっと撫でた。

「すみません。ぼくが勝手に……」

メールアドレスの詮索を詫びようとする男に、女は「ううん、いいの」とかぶりを振って、

「思いださせてくれて、ありがとう」

と軽く会釈した。

女の腕の中で、子どもが欠伸していた。

(10月19日)

 

註:まるで野村修也氏がまだ駆け出しのころ法律雑誌に連載していたコンプライアンス小説のようだ(こっ恥ずかし)。

 

簡単で散漫な解説

記事を、いやMedium流に言えばストーリーを書く際、余計な説明はなるべく省きたい。目次も索引も不要だと思う。矢吹丈流に言うなら「挨拶ぁぬきだ」です。

文章そのものに触れてもらえれば、それでじゅうぶんだ。私の人となりなんか伝える必要はない。知りたくなれば自然と過去に書いたものをたどるだろう。私は分かりやすく読みやすい記事づくりを積極的に怠りたい。遭遇は一期一会、内容が気に入らなければハイそれまでよ、だ。

記事に親切な構成を施すのは誘導のようで気が引けるのだ。読み手が増えるのは嬉しいが、呼びこみに精力をかたむけるつもりはない。成功報酬型広告等には全く興味がない。これからも私は、簡単で散漫な解説すらない、不親切なスタイルで書き続けるだろう。風邪で不機嫌な気分を反映している、この記事のような。(10月21日)

 

ゲームは殆どしたことがない私。

なぜだろう子どもの頃から、ルールを覚えることが苦手でした。近所の子ども同士でトランプをしようという話になると「あー面倒くさいな」と内心思うような子でした。将棋、麻雀の類いもまったくダメ。私に囲碁を教えこんだ亡き父は、将棋くらい指せないと大人のつきあいができんぞ、と本気で心配しておりましたね。

別にそんなことはなかったけど。

10代の終わりにインベーダーゲームが流行しました。私は友人たちが興じているさまを見ながら退屈していました。何回か自分もやってみたけど、なんでみんなが夢中になるのかさっぱり分からない。一面もクリアーできませんでした(一面もクリアーできないと言えば、ルービックキューブもそうです。誰かから貰ったけれど、厄介そうなんで、殆ど触らなかった)。

そんな調子でしたから、ゲームセンターに足を運んだこともありませんでした。パチンコも学生時代のつきあいでしばらく通いましたが、やはりつまらないと感じてしまうのですね。何回か幸運を授かったものの、夢中にはならなかった。私は何か欠落しているのかなと不安になるほどでした。その疎外感が決定的になったのは、そう、ファミコンの登場からです。

いいからやってみなよ、面白いからさと友人たちから勧められて、スーパーマリオに挑戦したものの、やはり一面もクリアーできない。好きな方には誠に申し訳ないけど、莫迦ばかしく思ってしまうんです。

ボタンを何回も押すことが。

後々話題になったロールプレイングゲームの数々も、私はどんな内容だか知りません。小説を読むのは好きだからファンタジー系のゲームなら大丈夫かなと思ったのですが、やはりダメでした。強いられる感覚がどうも。場面をクリアーしなければ先に進むことができない、端折れないことで挫折してしまう。早々に諦めてしまうのですね。

なので私は、名作と呼ばれるゲームの共通体験を持ちません。話題にしたくともできない。かといって非社交的ではありません。ゲームの話題に触れなくとも、幸い人間関係に差しさわりはないから。

私はYouTubeを観るのが好きです。だけど好きな音楽の前に戦争シーンが写し出されるのは興ざめです。すぐさまスキップしますが、威圧するような音響が耳に残って不快です。バトルゲームやシューティングゲームはこの世から……以下省略。

私はシネコンのドルビーサラウンドや、コンピュータグラフィックスで制作された3D的な映像も苦手ですが、これもゲームぎらいと関連があるのかもしれません。威圧感・切迫感がダメなんです。

そう、急かされる感じがたまらないのです。明日までに宿題を済ませなければ、の切羽詰まった感じと、何分以内に何体をやっつけなければ次に進めないゲームは似ていると思うのです。っていうか、私にとっては等しく労苦です。現実にクリアーしなければならない事項が山ほどあるのに、なんでわざわざ、それと同じようなストレスを味あわなきゃならないの?と思ってしまうのです。

要するに、私にとってゲームとは「忍耐」なんだ。

ああそういえば、唯一やり遂げたゲームがあった。「ポケモンクリスタル」。流行したときに、子どもからどうしても買ってとせがまれ、やむなくゲームボーイとソフトをガイドブックを購入したんだった。使い方を教えているうちに子ども以上にはまっていた(笑)。たぶん私がゲームを受け入れるためには理由とプロセスが必要なのかもしれません。だからか私は今夏の「ポケモンGO」の流行を、わりと好意的に眺めていられた。

ご心配なく。私は多趣味な人間で、退屈とは無縁です。音楽、読書、絵画、写真。Mediumだってそのひとつ。ゲームに興じている余裕はないんだ。

♪人生はゲーム〜

(10月25日) 

 註:意外なほど読まれた(閲覧者数10月中第1位)記事に、余計な付け足しを加筆したエントリーがコチラ。


はてなブログのサイドバーを削除した

昨夜あれこれ考えてみた。私はなぜ最近はてなブログをつまらなく感じてしまうのだろうか、書く情熱が潰えてしまった理由は何だろうか、と。

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私は記事の右側に「サイドバー」を設け、そこにプロフィール、索引、Twitterの投稿を示した窓、Mediumを含む他メディアの案内などを載せていた。が、それを全廃してみてはどうだろうと考えた。

とりわけ外すべきだと思ったのが、トップテンと銘打ったランキングである。どの記事にアクセスが集まったのかが一目瞭然だったが、その順位に引きずられているように感じていた。

アクセスの多い記事は殆どが音楽関係で、人気あるミュージシャンについて書いたものがよく検索されていた。私は知らず識らずのうちに迎合し、次にどんなアーティストを取り上げればアクセス数を稼げるかと、狙いを定めるようになっていた。

しかし、そういった企みこそが疲弊する原因だった。私はアクセス数にこだわりすぎた。その雑念が文章に濁りのようなものをもたらしていた。

《よし、やめよう。》

はてなブログ毎やめてしまおうかとまで思いつめたが、書くこと自体に倦んでしまったわけではない。ならば意欲減退の原因を取り除いてみよう。決心した私はデザイン設定からサイドバーを選び、項目一つひとつを削除していった。f:id:kp4323w3255b5t267:20170909181414j:plain

これでスッキリした。訪問した読者も余計な情報に惑わされず眼前の記事に集中できるだろう。私はこのレイアウトにしたことでブログを立ち上げた当初の清新な意気込みを取り戻せそうな気がする。

書くことに特化する。これはMediumから学んだことである。
(10月30日)
註:もっともらしいことを書いているけど、たぶん音楽以外の(例に挙げた『時間どろぼうに御用心』のような)記事をもっと多くの人に読んでもらいたかったのだろう。でも、書きたい気持ちをふるい立たせるのって、なかなか難儀だよ。そんなときは今みたいにアーカイヴ作業に勤しむのさ。

 

2016年9月のMedium

 

9月には私的な重大事があった。読み進めてゆけばおわかりになるだろうが。

 

浮島

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熊本県上益城郡嘉島町。六嘉湧水群の一つ、浮島の周辺を散策した。

平成のため池百選にも選ばれた風光明媚な場所である。

池の中央の、半島の突き出た部分に浮島熊野坐神社が在り、近所の人々は親しみをこめて「浮島さん」と呼んでいる。

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お杜の辺(ほとり)には朽ちたボートが係留されている。

私は参拝しようと池の周回路をめぐったが、方々に震災の爪痕が認められた。ここは震源地からあまり離れていない。

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浮島神社の鳥居も崩壊し、参道の脇に寄せられていた。お参りをすませ、そのまま近所の群落に分けいると、井寺遺跡まで0.3㎞の案内板が。私は導かれるように緩い坂道を登っていった。

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坂道を登りつめた小高い丘に井寺遺跡の円墳があった。墳丘はブルーシートで覆われ、石棺にいたる入口は幾重にも立ち入り禁止のテープが張りめぐらされており、写真を撮るのは憚られた。

〈こういった文化財の修復はずいぶん後回しになるのだろうな。〉

震災による家屋の損壊があちこちに残る集落へ戻る。細い路地を分けいると、男性が畑仕事をしている。軽く会釈をし、

「この先、抜けられますか」と訊くと、

「池の方さん抜けられます」と答えた。

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台風が近づきつつある曇天の空を映しだす水面。魚影のうごめきを目で追っているうち、漱石の『二百十日』のことを何故かしら思いだしていた。

秋の訪れは其処彼処に認められる。

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約30分で池を一周した。ふと気づくと、釣り人の糸を垂れるすぐ側にアオサギが佇んでいる。なんとも親しげな様子に、私は心惹かれた。

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私がシャッターを切ると、沈黙の時を邪魔されたアオサギは、抗議するように低い声で啼き、飯田山の方角へ飛び去っていった。(9月3日)

註:こういったフォトエッセイがMediumにはいちばん似合っていると思う。

 

いろんな意見が飛び交ってますが、

私はMediumに気さくさを求めません。

運営する方々には申しわけないけど、正直なところあまり流行ってほしくないという気持ちがある。

人の書いた文章を読むのは好きだし、ハイライトを記すのも面白いけれど、切りとられた一部の文が方々に拡散し、第三者に取り沙汰されるようになったら、

SNSとしては成功なんだろうが、愉快ではない現象が起きるような気もする。

杞憂だといいのですがね。

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イチヂクが実っていました。が、赤く熟した実にはカラスの嘴の跡が。甘く熟れた実には穴から侵入する蟻が。いい状態の実はなかなか見当たらない。

落花生を一本、引っこ抜いてみました。こちらはまだ早かった。まだ編み目のない殻を割ってみたら、中はまだ真っ白だった。今月下旬に収穫しよう。

私はお喋りのようには書けないのです。(9月7日)

 

スローなメディアにしてくれ

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Twitterはとても速い。まるで通勤電車のようだ。LINEはもっと速いのだろう(知らない)。Facebookは性に合わないから早々にやめてしまった(私は社交性に乏しい)。Instagramは簡便なフィルターとして使っている。はてなブログは気合いを入れて書いている(ので疲れる)。

そんなふうに私は各種SNSを使っている。情報の伝わる速度はそれほど問題にしない。乗り遅れてはならないとの脅迫観念は、時に思考を単純化してしまう。

Mediumの魅力は任意で速度を調整できるところである。急行にするもよし、各駅停車にするもよし。途中下車しても構わない。素早いレスポンスが可能だけれども、私は即時反応が苦手だ。熟考する余地を残しておきたい。

Slow down, you move too fast.

スローライフならぬスローメディア、ってところか。あんまり遅いとかったるいからテンポはミディアムに設定しておこう。ともあれ投稿した後に読み返してみても恥ずかしくないものにしたい。

「優先順位」と題した過去記事を振りかえったら、以前の私はMediumを3番目だと位置づけていた。でも最近、目を通す順番が一つ繰り上がったようだ。(9月8日)
註:またしても「Medium論」(苦笑)。しかも2回にわたって展開している。
 

自然は其処彼処に遍在している

自然派の是非が問われる昨今の風潮。都会にいながら自然を語るのは笑止なんだそうな。ヘビやムカデに遭遇するくらいの田舎に住んでみないと自然を語れないんだそうな。浅はかな意見だ。辺境に行けばいくほど自然を語るに優位だというのか。だが、そんな理屈を捏ねる人ほどアラスカに行こうがアフリカに行こうが、アマゾンに行こうがアンデスに行こうが、自然を察知できないような気がする。

ありとあらゆるところに自然は遍在している。東京都港区であろうと自然は発見できる。自然の姿を見、自然の声を聞くのは誰でも可能なことだ。それは人に生来備わった能力である。忙しさに感けた人は、ただ忘れているだけだ。自分の周りに自然環境がとりまいていることを。

自然を捉えられる感性を養うことだ。センサーを働かせることだ。自然はあまり自己主張しないから、目をこらし、耳をすます必要がある。五感を研ぎすませば自ずと自然は姿を現してくれる。

街は数々の建造物に溢れている。人の手の介在した物質が大半を占める。しかし構築する材料となるものは自然界から拝借したものだ。コンクリートにしろアスファルトにしろ、鉄筋にしろガラスにしろ、すべて鉱物を砕き、すり潰し、練り直したものである。街の景観を彩る色々な色もまた鉱物や植物など自然界にある色素を抽出して加工したものだし、いま触れているスマートフォンにしてもそうだ。どうしてICが大量の記録を刻めるのか、その仕組みを理解できなくても、半導体を作るのにも原材料が必要なことくらいは分かるだろう?無から有は生み出せない。わたしたちは自然界の恩恵によって生かされているのだ。

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私は地方都市に住んでおり、周りには自然が満ちあふれている。どのくらいかと申せば、昨日プロムナードの壁に掛けていた額縁の中にコウモリを発見した程度には「田舎」である。出られなくなったと勘違いした私は、裏のパネルを外してねずみ色した丸い動物を外に出したが、かれは安眠を妨害されたようである。翼を広げたのち、私の周囲を何度も旋回していた。薄暗い隧道の天井に彼の軌跡が幾重にも弧を描いていた。ライトに照らしだされたシルエットは巨大なコウモリが襲来しているような錯覚に陥った。学ぶばかりではない、自然はときに愉快なエンターテイメントも演出してくれる。

けれども田舎に住んでいたって自宅と職場、車内とコンビニだけの生活を送っていれば、どこに住もうが見る風景に変わりはない。均一化が進む現代社会は興味の外を見なくても済むように設計されている。文明の利器にスポイルされてしまい、四季の移り変わりを見過ごすような手合いは、都会よりもむしろ地方に多く見られる。それは格好やしぐさを見ればだいたい分かる。この人は自然に興味がなさそうだ、とある程度の察しはつく。

四六時中、意識しなくてもいい。過敏になると疲れるだけだ。適当にリラックスして周りを見渡すだけでいい。自然は都会だろうが田舎だろうが其処彼処(そこかしこ)にあまねくあるものだ。ほんの少し目をこらし耳をすますだけで自然の姿かたちは容易に発見できる。まずは眺めるところから始めてみよう。自分をとりまく環境をちょっびり意識する、それだけであなたは「自然派」の仲間入り。(9月15日)

註:似たようなことは前年既に『シンボライズ』という題で「はてな」に書いていた。

 

SNSの虜となって “Prisoner of Social Networking Service”

まずは冒頭に掲げた記事を読んでいただきたい。私に筆者のような経験と見識はないが、共感する部分が大いにあった。

インターネットにおけるサービスの向上と普及が何をもたらし、何を失いつつあるかを考えさせられる記事。情報の集約化とカスタマイズへの警告。私たちは袋小路に入っていないか?

と読んだ直後Twitterにも紹介している。

私は既にSNSの環境が整った2010年頃からインターネットに発信し始めた。それ以前は見るだけの人だった。昔は良かった的な懐古に浸りたくないが、読みごたえのあるブログが多かった。最近は投稿するのに夢中で他の記事を熱心に読まなくなった。記事の内容や文章に含まれた発信者の意図にあまり注意を払わずに情報源を斜め読みして中途半端に納得している。良くない傾向だ。(言い訳めくけどMediumで♡マークをつけた記事は熟読してます)。

私は浦島太郎の状態に陥りたくないから頻繁にアクセスしているだけかもしれない。最新の話題に接してないと取り残されるのではないかという焦りや長く発信していないと忘れられるのではないかとの不安から逃がれられないでいる。そういう意味で私はSNSの囚われ人である。

「囲い込まれているな」と感じるときがある。ノイジーな意見が遮断され、私むきの、耳心地のよい情報にカスタマイズされていると。それは自分の求めていた快適なインターネット環境であるかもしれないが、私の選択を元に「おすすめ」される情報は、違った角度からの視点が欠落している。不確定要素がまるでなく、既視感を覚えるものばかりだ。「囲い込まれてンなあ」とつぶやいた私は不可視のパノプティコン(全展望監視)を意識せざるを得ない。

私を虜にしたSocial Networking Service.そのシステムの全貌を掴むつもりはないが、囚われたままの生活はまっぴらゴメンだ。かつて観た「プリズナーNo.6」ではないけれど、私は脱出する算段をあれこれ考えている。

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SNSは麻薬のようなものだ。用法を誤ると耽溺しかねない。書かずには居れないの水域に達してしまわないよう、適当に距離を置いてつきあったほうがいい。文章が乱れてきたり言葉づかいが荒れてきたら、しばらく「筆を置く」べきなのかもしれない。いくらでも書けると思うのは錯覚だ。内容が伴わないうちは投稿しないでおこう。幸いMediumはDraftsに保存できる。世に出すべき時は「今」ばかりではない。例えば冒頭に紹介した記事は昨年に投稿されたものだ。読むに値する記事は経年劣化とは無縁だ。(9月18日)

註:この記事に書いた内容は、最近も思うところが多い。とくに昨今の「BUZZる」について。

 

 

父のアルバムkp4323w3255b5t267.hatenablog.com

この記事はMediumと「はてな」を同時に投稿した。独立した記事として読んでください。

 

 

覚書(備忘録としての)

私は60〜70年代のアメリカンポップスを愛聴している。とくに西海岸のロックと商業的ポップスの狭間に発生した音楽が好きである。そしてこれらの音楽にある程度通暁すると、どうしてもスタジオミュージシャンの働きに突きあたる。後にレッキング・クルーと呼ばれる一群の。

ハル・ブレインはクルーのキャプテンと呼ぶにふさわしい、優れたドラマーである。


On Drums: Hal Blaine

  1. こうして並べてみると、60年代アメリカのポピュラー音楽の代表的ナンバーはほとんどハル・ブレインが叩いていると言っても過言ではない。その仕事量とスティックさばきの多彩さにあらためて驚かされる。
  2. だがしかし、その合理的なレコーディングシステムこそが、手作り感覚にあふれたブリティッシュインヴェイジョンに(セールス的にも)後塵を拝する結果になったのではないか。手際よいプロの仕事が、ともすれば作り物めいてしまい、アメリカン・ロックの伸長を阻害したとの見方も可能であると思う。
  3. つまり67年ごろから台頭したビッグブラザー&ホールディングカンパニー、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ドアーズ(ベースは名手ジェリー・シェフに協力を求めたが)などのシロウトくさい演奏は、クルー等の規格統一され安定したアンサンブルのアンチとして機能した。
  4. 凸凹なアンサンブルだからこそ当時の若者は共感したのではないか。もちろんレッキング・クルーが手を貸したグループの中には世代的な反抗の色を帯びているものもいた。が、やはりお行儀がよい。はみ出ていないのである。対するサンフランシスコ産バンドのヘタくそさには、逸脱するスリルがあった。
  5. サマー・オヴ・ラヴがもたらしたものとは何か?ヘタくそさの理由とは?社会的ではなく音楽的な側面からアプローチしてみたい。それが私の、目下の興味対象である。

未明の雑感をざっと列記した。結論めいたものは何もないが、忘れないうちに書きとめておきたい。他愛のないことだけど、私にとっては重大な関心事であるゆえ、備忘録としてMediumを使ってみた。(9月28日)

註:なるべく他愛のない、内容の薄い記事にしたかった。そうもしないと再開できそうになかった。