はてなブログの投稿をさぼっていたら約1か月が過ぎ去っていた。
この間ぼくは、ただ手を拱いていた。書きかけの記事を破棄しては途方に暮れていた。今後どのように問題とアクセスすればいいか。もっとも有効な手だてとはなんなのか。分かったことはただ一つ、「近道はない」ということだけだ。
この一か月間の思考の推移をTwitterの「モーメント」に並べてみた。今いちばん引っかかっているのは何かを探ろうと。すると、おぼろげながら見えてきたものがある。それは、自分がいま居る・在る場所である地域と、個人であるぼくの意識とが、乖離した状態であるということだった。
<ぼくなんか典型的な低所得者で下流階層にもかかわらず、社会に向ける視座や文化的受容の姿勢が明らかに中流のそれなんだ。で、現状と自意識のかい離したところで悶えている。一度身につけた衣はなかなか脱ぎ捨てられないものだから、下流階層であると自己定義できないでいる。ぼくもこの土地の住民として、侘しくも寂しい喧騒と装飾過多の街を形成する一員であると自覚しているつもりだけど「何故、社会問題に逃げるのか」という理屈は人の営為そのものの否定でしかない。ああいう表層的で一面的なシニシズムから脱却しなければならない。>
<これはぼく自身にも垂直に降りてくる問題で、震災後に自分の裡にわきあがる「郷土愛(嫌らしいことばだ)」みたいなものや、父の死去によって自覚した霊魂との共存が、理屈とは裏腹に意識の底に棲みついているようで、抗うべきは国家よりもむしろ生活習慣に根ざした部分ではないかと煩悶している。>
<ぼくにも愛郷心みたいな感情は人並みにあるけれど、それは無条件に崇め奉るものではないと思う。>
ああ、回りくどい助走はやめよう。ぼくがつまづき、問題だと思ったことは、精神科医として著名な斎藤環氏が〈ヤンキー=常民〉という視点を用意したからである。
①(前略)北九州市の貸衣装「みやび」の記事。
この店にヤンキーは一人も来ないのだという趣旨だが…
②「みんなびっくりするくらい礼儀正しくて…衣装も翌日にちゃんと返してくれるし…しっかりした人じゃないとできないですよ」いやだからそういった筋を通す倫理観もヤンキーの本質なんだと何度言えば。
③気合いが入ってて筋を通し、人に迷惑掛けず、(がんばる)弱者には優しく、タテ社会の秩序と、郷土と家族を大切にする。ただし、ちょっとだけバッドセンス。これが〈普通の〉ヤンキー。もしも「治安」と「絆」と「経済」が最優先課題なら、社会がヤンキーを尊重しなくてどうしますか。
(③への返信)ヤンキーは「素直に」環境に適応できた(できる、ではない)人々のことではないかと思いました。しかしその適応は一回きりで、ゆえに環境の変化を嫌うのかもしれないと。
⑤適応力ハンパないですよ。でも一回きりということはないような。族→JC→地方議員みたいなコースもあるので。
(③への返信)学校文化から離反して自己肯定的な階層をつくっているともいえるなあ。可能性だなあ。イギリスの野郎どもに近いような。
(③への返信)ヤンキー社会は、不平等かつ不公平である。曖昧な雰囲気で重要な物事が決まり、「気合いが入って」ない人間は軽視される。主要メンバーとザコの区別は明確で、贔屓と差別が横行する世界である。 そこに、自由はない。だからみんな昔から、地方を飛び出し都会を目指したんだろう?
この一連のやりとりをみていて何ともいえない居心地の悪さを覚えた。そう、ここに示された「普通のヤンキー=現代の常民」説こそ、ぼくが熊本という地方都市に住みながら常々感じていることで、同時に自分が地域社会にアプローチしづらい最大の要因であるから。
熊本には「あからさま」なヤンキーは少ない。着道楽の気風は、あべこべに色鮮やかな衣装で成人式を迎えるといった風習に発展しない。若者の格好を見渡すと、都会風に洗練されているが、その外観さえ除けば、地域に定住する若い人たちの意識は、成人式を派手にやらかす地域のそれと、さほど変わらないように思える。
類型化は避けたい。地域から出ない=都会に出ない生き方を選択した若者たちにだっていろんなタイプがいる。ひとえに「ヤンキー」と括ることはできない。が、しかし「覚悟を決めた」者たちの意識には、ある共通した要素を(いったん郷里を離れて戻ってきたぼくからしてみれば)見出せる。それは習俗にかんする衒いのなさ、行事への参加を当然とするマインドの在りように顕著である。彼らは万事に積極的で、そこへ疑問を挟む余地はない。地域で「活躍する」若者たちが、たとえヤンキー的な身なりをしていなくても、常民であると感じる部分は、まさにそこにある。
常民(じょうみん)とは、民俗伝承を保持している人々を指す
民俗学用語で、最初に使用したのは
柳田國男である。「庶民」の意味に近いが定義は一定しない。(
Wikipediaより)
ところがぼくは、その常民さ加減がよく分からない。そこにどれくらいかかわればいいのかが若いころから分からなかった。大方は「人つきあい」を面倒くさがる怠惰から来ているが、一般的常識として世間とのかかわりを拒絶まではしなかった。変わり者だと思われたくない意識があるからか。けれども、この齢になっても情けないことに得意ではない。妙にしゃちほこばったり、必要以上に強張ったり、つっけんどんになったりする。
批評精神がまずいのではないか、とも思う。ぼくは何事に対しても分析したがる性向があり、とくに世俗的な習慣(習俗)にかんしてはかなり批判的に眺めてしまう。その理由は後学的なものであり、そういった地域のしがらみから(ある程度)解放された首都圏で生活したからであろうが、ともあれ、習俗から一歩身を引く態度が備わってしまっている。だから、いざ地域の諸々な行事に参列するたびに居心地が悪く、居たたまれない気持ちになってしまうのだ。
自然と、地域に溶けこみたい願望が、確かに己の裡に潜んでいる。
だけど、いや、だから。
問いかけている? 誰に?
それは他ならない「ぼくはヤンキーじゃないよ」と思いこんでいる者たちへ、だ。ああいう趣味・嗜好性は論外だとする都会のエリートたちやリベラル系文化人、そして「ぼく」へ向かって問うているのだ。
ぼくだって半身を浸している。三代目ナントカの歌は聴かないし、初詣の列には滅多に並ばないけど、大まかな(都会から目線の)括りでいえば、むしろ彼らの側なのである。だのに、そこを切断しようとする。その土着性から逃れようとする。趣味が悪いと嗤おうとする。田舎者が田舎者を見くびる構図。ぼくは彼らとは違うと言い張ろうとする。
いったいどこが違う?
葬式を出すならやはりこれくらいは、とか。香典返しはどのくらいまで、とか。仏壇はどうだ、供える花は菊だろうやっぱり、喪中につきの新年のハガキを用意しなきゃ、とか。この数か月ぼくは習俗まみれだったじゃないか。そんなもの迷信だ、ナンセンスだと思えるほどドライな性質じゃない。遺影を前にすりゃ、そこに親父がまだ居るような気がして、あだや疎かにはできないなと柄にもなく茶を淹れて返して線香あげて。日常の暮らしには科学的観点からすれば全く無意味な習慣を、ほとんど無意識のうちに行っている。
なので初詣ラッシュを「奇怪だな」と感じ、「右傾化が進んでる、危ないぞ」と思う自分がいる一方、神社に手を合わせる程度のことで一々文句をつけるオレもそうとう世間一般からズレているよなと自覚もする。つまり、理性と感情がうまい具合に統合し得ないところが目下の課題だと自分では思っている。
この苦しさ、いいようのないもどかしさを理解してもらいたい、誰かと共有したい、と発信し続けているのだけれど……
それもまた、なんだか徒労のように思えてしまう昨今なのである。
現政権および既存のマスメディアは、そこらへんをじつに要領よくすくいあげている。常民の生活感情にフィットした情報を投下し、現実を「人生はあなたが思うほど悪くない」と思わせる術に長けている。
この(ぼくの批評眼からすれば)詐術を見抜き、逃れるには、そうとうのエネルギーを要する。いや、だまされるなと自分に言い聞かせることはできても、隣人に「いま、世の中がおかしくなっていると感じませんか?」と問いかけるのはとてもむずかしい。
「そうかな?お給料はもう少し上がってほしいし、不満がなくもないけど、わりと今のままでいいと思うんだけど?」という答えが返ってくる確率が高いのではないか?
そして彼らはささやく。もっと素直になれよ、と。
取り巻く世界を否定的に見すぎてンだよ、もっと肯定的に捉えればいいんだよと、微笑みとともに手を差し伸べてくる。そうだ、こっちへおいで。キミは何か悪い思想にとらわれていただけなんだ。あらゆる事象を「問題だ」と妄想してしまう、批判中毒に……
ああ、ここまで書いてきて、胸くそ悪くなってきた。どうしてぼくらは「彼ら」を彼らと彼岸においてしまうのだろう。自分の側に引き寄せるか、引き寄せまではせぬとも隣人として扱えないのだろう。なぜ対岸の人びとだと規定するのだろう。彼らは笑いながらいう、熊本出身じゃないか、同じ男じゃないか、同じ日本人じゃないか!
いいえ、いいえ。
違う、それは違います。きみと・きみらとぼくは、種や族は同じでも、個としては同一ではない。一緒くたにしないでくれ。考え方の基は、同じようで、一人ひとり違う。
その違いを認めてくれ。
……とストレートに、それこそ素直に・自然に・衒いなく言えるようになりたい。自意識過剰なのかもしれないが、まずは現実に、そういえる間柄を作りたい。もやもやとした「世間」ではなく、対話のできる個と個の人間関係。その橋頭堡を築く年にしたい。
とりとめのないことを未整理のまま縷々書きなぐってしまったが、錯覚かもしれないけど、リベラル左派を自認するぼくは同志たちに向かって、年頭にあたってのささやかな提言をしたい。それは、
「批判はもうこりごりだ、といわれるほど、ぼくやきみの批判は届いていない」
が、
それで一人がひとりに、何かきっかけを、ヒントを与える。その集積がいつか、日本の社会を覆う重苦しい空気を掃いのけられるのだと信じている。
ぼくが自分を「常民」だと規定したココロが分かっていただけるだろうか?
ぼくはインターネット上のさまざまな意見を目にする。そこで、あえて自分を「高卒で手に職を持つ・女房と子どもがいる労働者階級」だと規定し(それ、ほぼまんまじゃん)、その視点から社会批評や政権批判を眺めてみる。
すると分かるよ、どんな意見が響くのか、腑にストンと落ちるのかが。
うわっつらの批判は、深いところまで下りてはこない。データでは、ダメなんだ。
生活している者に訴えるには、暮らしの根本に影響するような訴えが必要なんだ。
自分のスタイルで発信し続けるやつには信頼感を抱くよね?
そういう論客をくさしてはダメだよ。育てなきゃ。
ぼくはたとえば野間易通のことを言っているんだ。
ああいう個性をもっと活かさないと、勝てねえよ。
あいつもダメ、こいつもダメと選り好みしているようではね。
いいさ沈んでゆくさ、郷土と一緒になって。
いずれ朽ち果てたときにゃ、土くれに還るのみ。
そういう捨て鉢な気分になりつつも、やっぱり「これじゃいけないんじゃないの?」と声を挙げていく必要があると強く感じている。
社会問題にアクセスするときの躊躇いはいったい奈辺に起因しているかを考えなけりゃならないとも思う。
いいか、「近道はない」んだ。
今ある危機を訴えるなら、まずは己が隣人からだ。
【追記】
①<人に迷惑掛けず・(がんばる)弱者には優しく・タテ社会の秩序と・郷土と家族を大切にする>との「常民」の人物設定が歪なものであるかの、これは証左ではないか。福祉課の家庭訪問で、このようなジャンパーを集団で着用することが、いかに(がんばれない)弱者を足蹴にしているかの象徴的な事件だ。
②類型化された「マインド」に順応した結果が、このありさまだ。これはひとえに一自治体の職員にとどまらない、いまの日本社会を覆いつくす弱者排斥の風潮だと何度言ったら(分かるのかって話)。
③<職場の連帯感を高めるため10年前の平成19年に有志の職員によって作られ、職場で着用されていましたが、その後、一部の職員が受給者の家庭を回って支援に関する相談に応じる際などにも着ていたということです。>この「連帯感」がくせものなんだ。
④うん。お揃いのジャンパー着て士気を高めるという習慣はせいぜい団体スポーツくらいに留めてほしいですね。傍から見れば滑稽でしょ。着た本人たちは「連帯感」で強くなったように錯覚するんだろうけど、個の弱さを露呈しているように思えます。
ぼくのツイートのいくつかを抜書きしたが、いったい何人が「そのこと」に気づいただろう。どうやらぼくはまだ言葉足らず、説明不足のようであるらしい。だとしたら、このブログ記事に対する、かつてないほどの「無反応」さも頷ける。要は、まったく伝わっていないのだ。
このブログ記事も違う読み方をされた可能性があると思ったら、途端に背筋が震えた。
だから次に書く記事は、この記事を承けた内容になると予告しておきます。あまり気乗りしないけど。(1月21日)