鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

秋刀魚の味

 

秋日和の空の下、小津安二郎最後の監督作品、『秋刀魚の味』のことを想う。

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平山周平(笠智衆)は、ひとり娘の路子(岩下志麻)を嫁に出さなければならないと決心する。なぜ嫁に出さないとならないかというと、同窓会で会った恩師(東野英治郎)が、娘(杉村春子)を「便利に使ってしまった」と悔恨している様子をみたからである。周囲は適齢期なのだからそろそろ結婚をと促していたが、周平は「まだ急がなくてもいいだろう」と思っていたし、路子自身も「このままでいいの」と言っていたので、結論を先延ばしにしていた。が、密かに想っていた兄(佐田啓二)の同僚の三浦(吉田輝雄)が他の女性と婚約したのを知るに及んで、路子は勧められていた縁談相手との結婚を決心する。

結婚するにいたる事情は様々だけど、このような「運命のひとひねり」が要因であることを『秋刀魚の味』は見事に捉えているのだが、葛藤は最小限に抑えられ、台詞としての抗いもなく、周平と路子は事実を淡々と受けいれる。それが予め定められていた既定路線であるかのように。だけど娘が嫁いだあとの自宅の玄関には今まで同居していた者の気配がなく、周平はその空間に、虚無を痛切に感じる。

秋刀魚の味』のあらすじをざっと記してみたが、これを書いたからといって、観る際の妨げにはなるまい。小津映画を観るということは、観ている時間そのまま映画の世界で過ごすことであり、映画の裡に暮らすことだ。私たちは身内となって路子の行く末を案ずる。あるときは(今の観点からするとハラスメントを連発する路子の上司である)中村伸郎となり、またあるときはウィルソンのドライバーを欲しがって妻(岡田茉莉子)に咎められる佐田啓二となり、路子の幸福に関与しようとする。しかし笠智衆の周平だけは、その「幸」のありかたに疑いを抱く。声明こそしないけれども〈それが本当に娘の幸福であろうか〉と。かの女の自由意志を蔑ろにしているのではないかと煩悶する。けれども当時の大人は身をよじって訴えはしない。それでいいのかと思い悩むが、結局それが娘のためには幸せなのだ、自分の許にいつまでも置いていては婚期を逃してしまうからと無理やり自分に納得させてしまう。戦後17年を経て、巡洋艦の艦長だった周平は、比較的に開明な思想を持つに至ったが、それでも世間の風潮、時代の標準に逆らいはしなかった。いや、異議を申し立てる気持ちすらなかっただろう。それでも〈これで本当によかったのか?〉という密かな思いが、寄せては返す波のように周平の胸を去来するだろう。映画のラストシーンは感情の喪失と空漠を暗示させる。

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なんと麗しい路子

2016年の現在に、この映画に示された時代背景をそのまま当てはめるわけにはいかない。が、『秋刀魚の味』に漂う、名状しがたい哀しみのようなものは、今の時代にも通底する問題をはらんでいる気がしてならない。私たちはいかに多くの約束事をお互いに交わしあい、制度を課しているだろうか。世間の枠組から逸れることをおそれ、自由意志をみずから抑制してしまうことがないと言い切れるか。周りはみな善人なのである。善人が善意を持って習慣の維持に努める。習俗、その不可視の柵が私たちを囲っているのだと示したこの映画は、腑を噛みしめるとほろ苦い『秋刀魚の味』がする。 

 

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【参照記事】

2018年に名監督・小津安二郎の“狂気”がバズった理由

bunshun.jp

 

平和から遠く

 
トランプ勝利の報を聞いて、それほど動揺していない自分が不思議である。

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ただ、予感はあった。それは欧米の著名アーティストたちが挙ってトランプを否定していたときに感じたことだ。かれかの女らはトランプの下品さ、偏狭さ、思慮のなさを槍玉にあげていたけれど、そのドナルドに対する嫌悪の情がむき出しになった声明を読むにおよんで、これは相当ヤバいぞと思わざるを得なかった。とくにロバート・デ・ニーロの動画メッセージには快哉をさけぶ向きも多かったけれど、ぼくは首を傾げた。

《これは負けるのではないか……》

たとえばブルース・スプリングスティーン。かれが“River”で描写したアメリカの貧しき人々。生活の困苦に喘ぎつつも、日々を強く生きていこうと歯を食いしばる人々は、ヒラリー・クリントンではなく、ドナルド・トランプに一票を投じたのではないか。そしてボス(スプリングスティーンのことだ)の真摯なメッセージは、かれらの意識に届かなかったのではないか。選挙結果だけで判断するのは早計だけれども、ぼくには数多のロックスターたちが、エスタブリッシュメントとして遇される現在において、庶民の気持ちを代弁する役目を失ってしまったように思えてならなかった。

ぼくはドナルド・トランプをこれっぽっちも支持できないし、かといってヒラリー・クリントンに期待もしなかった。バーニー・サンダースのことは大好きだったけど、それはかれの示したような道筋が日本に援用できないものか、との視点からだったように思う。いずれにせよ選挙権はアメリカ合衆国の国民が有するものであり、ぼくは関与できない。対岸の出来事を眺めながら、ああだこうだと論評する気にはとてもなれない。むろん他人事ではない。米国大統領が変わるということは、否応なく国際社会に影響を与える。とりわけ日本に及ぶそれは、前代未聞ともいえる困難なものだろう。トランプの就任によってTPPが無効化され、在日米軍が縮小されるなどといった楽観論を唱えられるほど、ぼくはおめでたくない。事態はより険しくなるだろう。しかし既に賽は投じられてしまった。いまさらこの結果を覆せやしない。

そもそもぼくには、他国の政治に口出しするほどの権利も・余裕も・資格も・手段もない。あるとすれば自国のみである。自分の住まう国の状況がかくも酷いなか、アメリカよどうした、頼むからまともになれと念じたところで、何も変わりやしない。ぼく(たち)にできることといえばただ一つ、今の・日本の・政治を、選挙によって変えることである。そのためには夢みがちな目を覚まさなくてはいけない。理念のみをいたずらに弄ぶばかりでは、現実的な利得と権益に敗北してしまう。学ばなければならない。トランプを選んだアメリカから、EU脱退を選んだイギリスから。間違うな、真似るのではない。現状認識をしっかり持ちつつも、平和で過ごしやすく、争いのない世界を手に入れるために、足腰を踏ん張り、持ちこたえ、跳ねかえすだけの胆力を備えることだ。絵空事ではない、地に足の着いた話をしよう。まずは自分のやれること、自分のできる範囲でのことをしっかりと務めておこう。今ぼくが言えることは、その程度である。気の利いた提言なんかできない。ただ、平和から遠くなる世界を、なんとかして食い止めたい。そのためにはどうすればいいかを、考える契機となった今回の大統領選であった。

 

 

【参照】

 

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 

【追記】

デ・ニーロのときと同じことをメリル・ストリープのスピーチにも感じた。その主張と勇気には1ミリの疑いも抱いてないけれども。(1月10日)

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時間どろぼうに御用心

 

「やあシルエット。きみに会いに来たよ」

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「おじさん誰だっけ?」

「イワシだよ」

「ああ、コーエンのカンリニンさん」

「またきみに話しかけたくて、来たんだ」

「あたし忙しいんだよ、これでも」

「分かってる。手間はとらせない。で、相談してもいいかな?」

「相談されるの、嫌いじゃなかったっけ」

「いじわるだな、案外」

「よく言われるよ。あんた容赦ないって。ホントのこと言ってるだけなのに」

「傷ついた?」

「当然。いや、ぜんぜん平気だよ。それで何?なに話したいか、言って」

「うん。実は、時間どろぼうの話」

「時間どろぼう?エンデの『モモ』の?」

「きみは読んだことあるの」

「読んだよ図書館で。一度めは難しくて挫折。二度めでクリア。三度めでようやく理解した」

「どう思った?」

「資本主義社会への警告だと思った。時間すなわち『お金』だよね?そう置き換えたらカンタンに解けた」

「きみは賢いな」

「賢いふうに思い描いてるから賢いんだよ」

「ははは」

「少女の理想を投影してますから。それでね、時間どろぼうは現に存在する。いまの社会に」

「うん。そのことが話したかったんだ」

「あたし察しがいいから。つきあい悪いって、よく言われてるけど」

「面と向かって?」

「影法師だけに、陰口。あたし、くだらない問いかけには応じないの。返事しないで、スルーしちゃう。だって時間のムダじゃん」

「だよね。そう思うよな」

「あたし実は、モモとおんなじ究極の聞き上手なの。今日はイワシさんが常日頃から思っていること言語化してあげるね」

「くだらない問いかけって、例えばどんな?」

「相手の都合もわきまえず同意を求めること。そう思わない?としょちゅう確認を取りたがる。違うと思うって返答したら不満に思う。みたいな」

「それ、無視できないの?」

「完全には無視できないな。シルエットにだって、つきあいってものがあるから。ぜんぶやり過ごしてたら、影世界からハブかれちゃう。だから適当に、相手してる」

「その加減が難しいよね?」

「それが世間というものよ」

「おませな口を利くな、きみは」

「イワシさんの想像力の産物だから、どうしてもね」

「暗黙のルールがあるんだろ?」

「ああ即レスね。そう、もたもたしてたら、なに無視してんのさって咎められる」

「大変そうだな」

「うん。だってひっきりなしなんだもん。送り手は一人に向けて話しかけてるつもりでも受けとる側がそうとは限らない。あたしみたいに交友範囲が広いと、四六時中呼びかけられてる状態」

「どう対処してるの」

「だから適当に。同調を強要するだけのメンションはスルー。だけど『これは』と思ったら、じっくり腰を据えて話しあう用意があるよ。膝つっつき合わせて一晩中でも。いつも毎度じゃ疲れるけど。ホントの心配事だったら親身になって相談に乗る」

「それで信頼をかち得るんだ」

「損得勘定ではないってことだよ。即レス=信頼の証みたいな、つまらないルールに縛られたくないだけ」

「そのルール、誰が作ってるんだろ?」

「ユーザーに決まってるじゃん。使う側に問題があるんだよ。自制できずに時間を浪費する。自己責任だとあたしは思う」

「ツールに振り回されるなってこと?」

「通信機器は便利な道具だよ。だけど時間どろぼうは若者の動向をチェックしている。どんなサービスを提供すれば、より時間を費やしてくれるかを研究し、会議し、開発している。あたしたちの情報はぜんぶ蓄積され、そのデータを元に仕様がアップデートされる。この巧妙なシステムに乗っからないでいるのは今日び不可能に近い。でも、だからこそ自制心が必要」

「自制心とは、つまり……」

「線のつながりを断ち切ること。つながってることで安心を得ようとしないこと。暇だから寂しいからなんとなく、を減らすこと。そして時間の決定権を自分が握ること。時間を他人に操られるなんてまっぴらゴメンだわ。あたしの時間をこれ以上奪わないで!」

「ずいぶんボルテージが上がってきたよ」

「……影らしくもないね。あたしドライな性格なんだけどなあ。ひとりきりの時間もっと欲しいよ。だっていつも実像と一緒でしょ?時どきうっとおしくなって実体から離れたくなるんだな。影にだって権利がある、って言いたいわ」

「影なりに苦労が多いんだ」

「まあね。とにかく時間どろぼうには御用心というのが今日の結論ね。連中は『時は金なり』を金科玉条に、あたしたちの時間を吸い上げようと日夜画策してるから。連中の思考法にうっかり乗ってはダメよ」

「思考法?それはどんな?」

「つまりね、すべての時間を労働に費やさせることによって生産性を向上するという経営者的な発想。それが商品にも反映されている。衣料品から通信サービスまで。若者の時間を奪うといったなまやさしいものじゃない。時間を搾取すると言い換えたっていい。それは連中の発言から汲み取れる。そういう経営者や役員のいる会社の物品には近づかないことね」

「連中とは誰?どんな発言をしている?」

「『努力もできない若者は年収200万を受け入れなさい』だの『年収200万は世界レベルではまだまだ高い』だの、好き勝手なこと言ってる人たちだよ」

「それ聞くと痛いな。ぼくもその程度だから」

「イワシさん、もう上がる見込みないもんね」

「だからまあ……慎ましく生きてくさ」

「なんだかわびしくなってきたね」

「せちがらい世の中だからね。

 シルエット、今日はどうもありがとう。また会いにきてもいいかな?」

「もちろん。孤独な中年相手は、あたしの得意分野だから」

「……」 (続く)