鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

時間どろぼうに御用心

 

「やあシルエット。きみに会いに来たよ」

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「おじさん誰だっけ?」

「イワシだよ」

「ああ、コーエンのカンリニンさん」

「またきみに話しかけたくて、来たんだ」

「あたし忙しいんだよ、これでも」

「分かってる。手間はとらせない。で、相談してもいいかな?」

「相談されるの、嫌いじゃなかったっけ」

「いじわるだな、案外」

「よく言われるよ。あんた容赦ないって。ホントのこと言ってるだけなのに」

「傷ついた?」

「当然。いや、ぜんぜん平気だよ。それで何?なに話したいか、言って」

「うん。実は、時間どろぼうの話」

「時間どろぼう?エンデの『モモ』の?」

「きみは読んだことあるの」

「読んだよ図書館で。一度めは難しくて挫折。二度めでクリア。三度めでようやく理解した」

「どう思った?」

「資本主義社会への警告だと思った。時間すなわち『お金』だよね?そう置き換えたらカンタンに解けた」

「きみは賢いな」

「賢いふうに思い描いてるから賢いんだよ」

「ははは」

「少女の理想を投影してますから。それでね、時間どろぼうは現に存在する。いまの社会に」

「うん。そのことが話したかったんだ」

「あたし察しがいいから。つきあい悪いって、よく言われてるけど」

「面と向かって?」

「影法師だけに、陰口。あたし、くだらない問いかけには応じないの。返事しないで、スルーしちゃう。だって時間のムダじゃん」

「だよね。そう思うよな」

「あたし実は、モモとおんなじ究極の聞き上手なの。今日はイワシさんが常日頃から思っていること言語化してあげるね」

「くだらない問いかけって、例えばどんな?」

「相手の都合もわきまえず同意を求めること。そう思わない?としょちゅう確認を取りたがる。違うと思うって返答したら不満に思う。みたいな」

「それ、無視できないの?」

「完全には無視できないな。シルエットにだって、つきあいってものがあるから。ぜんぶやり過ごしてたら、影世界からハブかれちゃう。だから適当に、相手してる」

「その加減が難しいよね?」

「それが世間というものよ」

「おませな口を利くな、きみは」

「イワシさんの想像力の産物だから、どうしてもね」

「暗黙のルールがあるんだろ?」

「ああ即レスね。そう、もたもたしてたら、なに無視してんのさって咎められる」

「大変そうだな」

「うん。だってひっきりなしなんだもん。送り手は一人に向けて話しかけてるつもりでも受けとる側がそうとは限らない。あたしみたいに交友範囲が広いと、四六時中呼びかけられてる状態」

「どう対処してるの」

「だから適当に。同調を強要するだけのメンションはスルー。だけど『これは』と思ったら、じっくり腰を据えて話しあう用意があるよ。膝つっつき合わせて一晩中でも。いつも毎度じゃ疲れるけど。ホントの心配事だったら親身になって相談に乗る」

「それで信頼をかち得るんだ」

「損得勘定ではないってことだよ。即レス=信頼の証みたいな、つまらないルールに縛られたくないだけ」

「そのルール、誰が作ってるんだろ?」

「ユーザーに決まってるじゃん。使う側に問題があるんだよ。自制できずに時間を浪費する。自己責任だとあたしは思う」

「ツールに振り回されるなってこと?」

「通信機器は便利な道具だよ。だけど時間どろぼうは若者の動向をチェックしている。どんなサービスを提供すれば、より時間を費やしてくれるかを研究し、会議し、開発している。あたしたちの情報はぜんぶ蓄積され、そのデータを元に仕様がアップデートされる。この巧妙なシステムに乗っからないでいるのは今日び不可能に近い。でも、だからこそ自制心が必要」

「自制心とは、つまり……」

「線のつながりを断ち切ること。つながってることで安心を得ようとしないこと。暇だから寂しいからなんとなく、を減らすこと。そして時間の決定権を自分が握ること。時間を他人に操られるなんてまっぴらゴメンだわ。あたしの時間をこれ以上奪わないで!」

「ずいぶんボルテージが上がってきたよ」

「……影らしくもないね。あたしドライな性格なんだけどなあ。ひとりきりの時間もっと欲しいよ。だっていつも実像と一緒でしょ?時どきうっとおしくなって実体から離れたくなるんだな。影にだって権利がある、って言いたいわ」

「影なりに苦労が多いんだ」

「まあね。とにかく時間どろぼうには御用心というのが今日の結論ね。連中は『時は金なり』を金科玉条に、あたしたちの時間を吸い上げようと日夜画策してるから。連中の思考法にうっかり乗ってはダメよ」

「思考法?それはどんな?」

「つまりね、すべての時間を労働に費やさせることによって生産性を向上するという経営者的な発想。それが商品にも反映されている。衣料品から通信サービスまで。若者の時間を奪うといったなまやさしいものじゃない。時間を搾取すると言い換えたっていい。それは連中の発言から汲み取れる。そういう経営者や役員のいる会社の物品には近づかないことね」

「連中とは誰?どんな発言をしている?」

「『努力もできない若者は年収200万を受け入れなさい』だの『年収200万は世界レベルではまだまだ高い』だの、好き勝手なこと言ってる人たちだよ」

「それ聞くと痛いな。ぼくもその程度だから」

「イワシさん、もう上がる見込みないもんね」

「だからまあ……慎ましく生きてくさ」

「なんだかわびしくなってきたね」

「せちがらい世の中だからね。

 シルエット、今日はどうもありがとう。また会いにきてもいいかな?」

「もちろん。孤独な中年相手は、あたしの得意分野だから」

「……」 (続く)

 

ぼくにとってのシンプル・ゲーム

 

 前回に引き続き、今回もMediumの記事を土台にブログ記事を構成する。手抜きだと思われるかもしれないが、どうかおつきあいのほどをよろしくお願いします。

 ゲームは殆どしたことがない私。

 という記事を未明に書いた。これは「ゲームは有益か無益か」がMediumの中で論点となっていて、ささやかながらぼくもそれに一石を投じてみたくなったから投稿したのだ。以下、本文に逐次解説を加える。

ゲームは殆どしたことがない私。

①なぜだろう子どもの頃から、ルールを覚えることが苦手でした。近所の子ども同士でトランプをしようという話になると「あー面倒くさいな」と内心思うような子でした。将棋、麻雀の類いもまったくダメ。私に囲碁を教えこんだ亡き父は、将棋くらい指せないと大人のつきあいができんぞ、と本気で心配しておりましたね。

 別にそんなことはなかったけど。

②10代の終わりにインベーダーゲームが流行しました。私は友人たちが興じているさまを見ながら退屈していました。何回か自分もやってみたけど、なんでみんなが夢中になるのかさっぱり分からない。一面もクリアーできませんでした(一面もクリアーできないと言えば、ルービックキューブもそうです。誰かから貰ったけれど、厄介そうなんで殆ど触らなかった)。

③そんな調子でしたから、ゲームセンターに足を運んだこともありませんでした。パチンコも学生時代のつきあいでしばらく通いましたが、やはりつまらないと感じてしまうのですね。何回か幸運を授かったものの、夢中にはならなかった。私は何か欠落しているのかなと不安になるほどでした。その疎外感が決定的になったのは、そう、ファミコンの登場からです。

いいからやってみなよ、面白いからさと友人たちから勧められて、スーパーマリオに挑戦したものの、やはり一面もクリアーできない。好きな方には誠に申し訳ないけど、莫迦ばかしく思ってしまうんです。

 ボタンを何回も押すことが。

⑤後々話題になったロールプレイングゲームの数々も、私はどんな内容だか知りません。小説を読むのは好きだからファンタジー系のゲームなら大丈夫かなと思ったのですが、やはりダメでした。強いられる感覚がどうも。場面をクリアーしなければ先に進むことができない、端折れないことで挫折してしまう。早々に諦めてしまうのですね。

 なので私は、名作と呼ばれるゲームの共通体験を持ちません。話題にしたくともできない。かといって非社交的ではありません。ゲームの話題に触れなくとも、幸い人間関係に差しさわりはないから。

⑥私はYouTubeを観るのが好きです。だけど好きな音楽の前に戦争シーンが写し出されるのは興ざめです。すぐさまスキップしますが、威圧するような音響が耳に残って不快です。バトルゲームやシューティングゲームはこの世から……以下省略。

⑦私はシネコンのドルビーサラウンドや、コンピュータグラフィックスで制作された3D的な映像も苦手ですが、これもゲームぎらいと関連があるのかもしれません。威圧感・切迫感がダメなんです。

⑧そう、急かされる感じがたまらないのです。明日までに宿題を済ませなければ、の切羽詰まった感じと、何分以内に何体をやっつけなければ次に進めないゲームは似ていると思うのです。っていうか、私にとっては等しく労苦です。現実にクリアーしなければならない事項が山ほどあるのに、なんでわざわざ、それと同じようなストレスを味あわなきゃならないの?と思ってしまうのです。

 要するに、私にとってゲームとは「忍耐」なんだ。

⑨ああそういえば、唯一やり遂げたゲームがあった。「ポケモン・クリスタル」。流行したときに、子どもからどうしても買ってとせがまれ、やむなくゲームボーイとソフトをガイドブックを購入したんだった。使い方を教えているうちに子ども以上にはまっていた(笑)。たぶん私がゲームを受け入れるためには理由とプロセスが必要なのかもしれません。だからか私は今夏の「ポケモンGO」の流行を、わりと好意的に眺めていられた。

⑩ご心配なく。私は多趣味な人間で、退屈とは無縁です。音楽、読書、絵画、写真。Mediumだってそのひとつ。ゲームに興じている余裕はないんだ。

♪人生はゲーム〜

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玄関先に現れたヘッセ(他所猫・上)と睨みあうチャイ(飼い猫・下)の図。(10月25日)

 では、振った番号にしたがって逐次解説を。

①遊びの前提としてルールの確認は必須条件である。それはインナーでもアウターでも変わらない。ゲームもスポーツでも、いや、ありとあらゆる相互間の競い合いには公平を期するためのルールが存在する。ぼくの意見としてつけ加えるならば、ルールはシンプルに越したことはない。誰にでも理解できる、そう、憲法のように。

②当時ぼくが喫茶店に入り浸った理由は、みんなとお喋りがしたかったからなんだ。でも、そこにインベーダーゲームがあると、誰もが画面上のたたかいに夢中で、ぼくが話しかけてもおざなりな返事しかよこさない。ずいぶん寂しい思いがしたね。

③ゲームセンターに行って楽しいと思ったことがない。さらにいうなら遊園地でも楽しめない。索漠とした思いだけがつのる。ぼくは本当に情緒的欠陥があるのではないかと疑ったことがある。パチンコ店にいたっては、入った途端に騒音に耳鳴りがし、電飾にめまいがする。

④ちなみに少しだけ面白いなと思ったのが、「ベースボール」かな。そのころはまだ野球観戦が好きだったからね。選手のキャラクターに感情移入できたんだ。

⑤とはいえ、酒席で各人が「懐かしのゲーム」話に盛り上がっているのを聞いていると羨ましいと感じる。ファイナルファンタジーが各メディアに与えた影響とか語られてもちんぷんかんぷんですから。アニメーションやヒップホップの先鋭的な動きについても疎いぼくは、1980年代の半ばから、なんだか時代に取り残されてしまったなあと感じたものです。

 小説といえば、たとえば『指輪物語』に接したのはずいぶん早かった。北欧系ファンタジーは本来ぼくの得意分野なんですが、ね。キャラクター化される風潮に抵抗があったのかもしれません。けれどもこれも面倒くさがりの言いわけかな。たとえばぼく、推理小説(いまはミステリと称すのだよね?)が大の苦手なんだ。“Who Done it? ”的な展開や謎解きを楽しめないんだよね。

⑥ノーブルなMedium読者向けに以下省略としたが、「この世から抹消してしまってもかまわないと思っている」といったん書いたんだ。少し刺激が強いかなと削除したが、思わせぶりをせず、ちゃんと文章に残せばよかったかな?まあぼくも、小学生時代にはプラモデル作りの参考資料に「丸」なんか買っていたクチだから、あまり強くは言えないんだけど。

⑦これは音響システムの問題というよりも、表現そのものに対する好悪がこう書かせたんだと思う。ぼくはSF大好き少年だったのに、ハリウッド製の・ジェットコースターみたいなスペクタクルシーンが大ッ嫌いなんだ。それが「ゲームぎらい」ということばに集約されている。

⑧ここに至ってはあまりつけ加えることがないな。読んで字のごとく、ぼくにとっての「ゲーム」は忍耐を要す作業だってことだ。いわば百マス計算だとか内田クレぺリン検査だとか月末ごとの棚卸しに等しい苦役なのである。なにが悲しゅうて兵隊でもないのに「敵の勢力を殲滅」せねばならんのか。徒労という他ないではありませんか。

⑨しかし、そういうホンネを直接ぶつけたら、ゲームの是非を議論している場所にふさわしくない。引く向きも多かろうと考えた。この温和なエピソードを挿入したのは、ぼくがネット上で培ったバランス感覚のようなものだ。

⑩ぼくはこの記事をおおよそ15分で書きあげました(Mediumに要す時間は30分以内だと決めている)。それから朝ごはんを食べながら、おかしいところを添削しつつ、投稿したのです。それと同時にTwitterに「個人の感想です」ってキャプションを添えて貼りつけた次第。Mediumでの決め事はもう一つあって、それは必ず「オチ」をつけること。巧くいくかいかないはともかく、そういうルールを自分で定めているんだ。

 ♪が南佳孝の「スローなブギにしてくれ」だなと察せる方は、ほぼ同世代だと思う。

 チャイ公とヘッセの写真も、いわばサービスだよ。

 

 さて、最後まで読んでもらえばもうお分りでしょう。この記事の主眼は「ゲーム」をくさすことではなく、ぼくにとっての「ゲーム」とは何か。を詳らかにするための作業だったんだ。ぼくにとってのゲームはSNSであるとの宣言みたいなもの。もう何年だ?約6年は続けているんだから立派なゲーム中毒だよね。そのことは以前この記事に心情を託したつもりだ。

kp4323w3255b5t267.hatenablog.com

 こないだぼくはMediumに自分は親切でないことを書いた。ブログ記事の上手な見せ方にかんする記事で、「はじめてアクセスしてきた人にも理解できるよう、丁寧な構成を考えること」との要旨が書いてあって、てやんでえオレぁそんなに親切には書かねえぞ絶対って反発心から以下の文章を5分で書いたのさ。

  さあ、これだけ材料を並べれば、ぼくがどのように3つのメディアを横断しながらブログ記事に結実させているかが分かるだろう。この記事、あまり意味がなさそうだから途中で放棄しようかなと思ったのだけど(だって、Mediumの元記事だけ読んだ方が説得力あるもんね)、ここまで書いてみて、いや、それなりに意義があるぞと思いなおした。

 というのはね、ぼくがインターネットのゲームにいつまでも興じてられる理由は、すなわち「サービス精神」の発露であることが判明したからなんだ。

 誰にサービス? それはいま読んでいるあなたにだ、よ。

 
Four Tops - A Simple Game (Motown 1972)

※サービスついでに音楽を貼っとく。モータウンを代表するグループ、フォー・トップス、72年のスマッシュヒット「シンプル・ゲーム」。これ、オリジナルは典型的な英国のグループともいえるムーディー・ブルースなんだ(初出は68年のシングル盤「ライド・マイ・シーソー」のB麺。作曲はキーボードのマイク・ビンダー。レコーディングにはギタリストのジャスティン・ヘイワードも参加している)。

 ムーディー・ブルースについては過去記事を参照してくれ。え、ついでにそいつもリンク貼っとけ、だって?(笑)やなこった! 

 

 

🔗 ムーディー・ブルース 7枚の旅路 - 鰯の独白 (親切イワシ)

 

 

ボブ・ディランへ、文学の側からの評価を求む

 

※この記事は10月17日にMediumに投稿した記事を再構成したものです。 

文学の側からの評価を求む

 なぜ、ボブ・ディランがノーヘル文学賞を授かるに至ったか、その意味を文学者や文芸評論家は真っ向から取り組んでもらいたい。

 ありていに言えば「歌詞の吟味」に尽きる。

「風に吹かれて」などの初期の代表作が公民権運動などの社会に与えた影響を語ることくらいでお茶を濁しているようでは、ボブ・ディランが受賞した理由、アーティストとしての真価には到底届かないだろう。

 ボブ・ディランは速書きで知られる。遅筆で有名なレナード・コーエンが「アイ・アンド・アイ」は書くのにどれくらいかかったかと質問したら、ボブは「15分」だと答えた。あの長大な歌詞をたったの15分で書き上げるというのだ。推敲を施すこともなかろう。異能という他ない。

【以下、Medium記事“Desire”より引用】

ボブが誉めてくれた、「君の“Hallelujah”は素晴らしい。作るのにどれくらいかかったか」と。そこで私は「10年だ」と答え、「私は“I And I”が好きだけど、どのくらい時間をかけたんだ」と逆に訊ねた。すると彼は、「15分だ」と答えた。15分!あの長い歌詞をだよ?レナード・コーエン

ボブ・ディランの歌詞はす早く書かれる。もちろん推敲も書き直しもするけれど、基本的には最初のインスピレーションをそのまま外に放り出す。言葉は時に意味が通じなかったり辻褄の合わなかったりする場合も多い。が、その粗削りな彫りあとが聞くものの耳に引っかかるのだ。彼は誰を指弾しているのか、敵か、彼自身か、それとも彼の恋人か。錯綜する意識を詮索しながら、聞き手はボブの紡いだ「物語」にいつしか没入していく。

レナード・コーエンは正反対だ。彼は戦車のように頑丈な詩を拵える。手造り靴の職人が皮をなめすようにコツコツと、誰が聞いても誤読不可能な語句を当てはめる。試行錯誤を繰り返した挙句、作詞は完成まで数年に及ぶ。一つのテキストに対するアプローチの相違は作風にも現れる。だからレナードの歌は、発表された瞬間から古典としての貫禄を備えている。

けれども、今朝がた私はボブ・ディランの『欲望』について、こんなことを呟いた。

洞窟の壁面に刻まれた古代人の文字が現代人の抱える問題や苦悩を偶然に照らしだすように。

彼が書きとばした言葉の羅列は、40年の隔たりを超えて、今ここにある苦悩を照射するに恰好の材料となっている。昨夜に書かれたものだと言われたらうっかり信じてしまいそうなほど生々しく、血の通った感じがする。それは“Isis”や“Joey”に今の混乱や葛藤を仮託した、引用者の心情とダイレクトに結びついたがゆえにであろうが、ボブ・ディランの警句もまた、経年の風化を免れた稀な詩として、ディラン・トマスやT.S.エリオットと並んで、後世まで語り継がれるに違いない(ということを本当は語りたかったのだと想像する)。 (以下略)

 反面、70年代の代表作としてあげられる「ブルーにこんがらがって」などは、ライブの度に歌詞が変化する。始終推敲を重ねる、永遠に未完成の作品。これもまた、ボブ・ディランという作家の稀有な資質であり、芸術のありようである。

 素人の私にだってこれくらいのエピソードは拾える。音楽評論家や現代芸術の批評家ならばもっと気の利いた指摘が可能だろう。ある評論家が、前掲していた記事(が、削除されている)に載ったアーヴィン・ウェルシュの発言を引用し、「批判するなら、これぐらいの表現力は欲しいよね」と軽口をのたまっていたけれど、では貴方は今回の受賞をどう思ったのか?いやしくもプロの書き手ならば手前のことばで批評してほしいものだ、と私は感じた。

 ボブ・ディランの歌詞=詩作の構造は決して奇抜なものではなく、むしろ古典的であり、修辞の飛躍も少ない。ボブは悪夢的な描写を好むが、わが国の総理大臣の答弁ほどシュールで奇怪な世界を語るわけではない。できれば英米文学の研究者による、詳細なアナリーゼを読んでみたいものだ。ポール・ウィリアムズ著『瞬間の轍』(下写真)みたいな歌詞の分析は試みる価値が大いにあり、だ。ディラン自身は『自伝』で、どのような古典文学に触発されたかを詳細に記している。ボブのホメロス的な叙事詩の源泉は専門家でなければ解けない種類の謎だ。それはディラン流のハッタリ、もしくは「煙に巻き」かもしれない。が、かれが詮索されたがっていることだけは確かである。私はボブの音楽を聴くたび「おれの書いたものをさまざまな角度から検証してみろ」と挑発されているように思えてならない。

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 漫画家の浦沢直樹氏は「究極の『うまいこといい』だ」と翌朝の朝日新聞の記事にコメントした。氏のディランへのアプローチは独自なものであるがゆえ、やけに淡白な感想だなと戸惑ってしまった。けれども千葉日報での、地元で活躍するミュージシャンJAGUAR氏の、きわめてまともなコメントを読むに至って、あゝこれは記者から見て余分な枝葉の部分を編集した結果なのかなと考えなおした。識者やその道のオーソリティが語る談話が一様に似通ってしまう傾向は全国紙も地方紙も何処も同じ事情なのかもしれない。デヴィッド・ボウイ死去の際にも感じたことだが、私が読みたいのは一般論やおためごかしではない。しかしこれは電話取材等のコメント記事に卓見を求めてはならないとの教訓であろう。

 だけど、ボブ・ディラン文学賞受賞について、もう少し鋭いコメントを目にしたいものだ。前掲の記事でいうなら、ジョイス・キャロル・オーツのような。かの女はボブが最も影響を受けた詩人ディラン・トマスを引き合いにし、ロバート・フロスト=ディラン・トマス、ロバート・ジンマシン=ボブ・ディランという、表現者の本名と筆名の関係性についてを簡潔に述べている。これこそが真の「批評」だ。

 そのオーツ氏が教壇に立つプリンストン大学は、70年にボブ・ディランに文学名誉博士を授けている。その式典の模様をディランは『ニュー・モーニング(邦題:新しい夜明)』の「せみの鳴く日」に結実させている。ポップスに自意識を持ちこんだ張本人であるディランは、生きる=トピックであり、目の前の事象すべてを「詩」として捉えることが可能であると身をもって示した。それが20世紀のアメリカにおいてポピュラー文化の表現拡大をもたらした、ボブ・ディラン最大の功績だと思うのである。

 私?私自身の独自な感想は、せいぜいこの程度(下参照)のものだ。(10月17日)

イワシ タケ イスケ@cohen_kanrinin 10月14日

ボブ・ディランは『自伝』の「オー・マーシー」の章で、やたらと「3」の数字が秘訣なんだと音符とフレーズの関係に固執していたけど、さっき  でかかっていた、ヴァン・モリソンの朴訥なギターソロ(ずっと2拍3連で押し通す)が、まさにそんな感じだった。 

 

【追記】

ボブ・ディラン?良さが分からない」という方に私はこの時代の音源を勧めます。


Bob Dylan - Rolling Thunder Revue

 とりあえずこれを観てみてください。重層的なアンサンブルと張りのあるディランの歌声が魅力的な『激しい雨』を。ロブ・ストーナーの弾力性あるベースプレイだけでも一聴の価値があります。

 また、曲によっては日本語の訳詞がスーパーに流れます。(同日)

 

 

 以上、ノーベル文学賞受賞決定のニュース以降に投稿したツイートを元に構成したボブ・ディランについての記事をMediumにエントリーした。Mediumは「意識高い系」として敬遠される向きもあるけれど、過去記事にとらわれずサクサク書けるという点で重宝している(どのサービスにもさまざまな意見があるものだ。ぼくだって「はてな村」のおっかない評判を目にするたび、はてなブログに書くのを考えてしまうときがある)。

 閑話休題

 ぼくが融通のきかないディラン像をあえて書いた理由は、ツイッター特有の「おれじつはよく分かんないんだ」や「おまぬけなエピソードが好きです」の方がチョイスされがちだからだ。女たらしのろくでなしとかどうでもいいゴシップばかりが作品の評価よりも余計に取りざたされる風潮がイヤなんだ。雄弁で著名な音楽評論家が「ディランは正直得意じゃないんだよね」とつぶやいているのを見ると、情けなくなるし、がっかりもする。その上さらに、ノーベル賞の評議委員会かなんか知らんが、ディランと連絡が取れないことが7時のトップニュースにあがる始末。まぁこの倒錯した現実こそが、稀代のトリックスターボブ・ディランに相応しいのかもしれないが、ぼくはまことに不愉快だね。このご時世に「連絡がつかない」なんてありえないでしょ?莫迦ばかしい。現にディランは受賞発表直後ライブのステージに立っているじゃないか。上機嫌で「ライク・ア・ローリン・ストーン」と歌ったという。舞台袖に代理人かなんかをよこせば済む話だ。くだらん。もっと作品そのものを論じやがれと、ぼくの腹立ちは治まらん。

 さて今回、はてなブログを仕上げるにあたって、ぼくは自分が過去ディランについて言及したツイートを再検証してみた。

 イワシ タケ イスケ(@cohen_kanrinin)/「ディラン」の検索結果 - Twilog

 そこで最後にいちばん好きだった自分のコメントを載せて、この記事にケリをつけたい。これは「新生姜」で有名な食品会社社長の岩下和了さんに宛てたメンションです。

イワシ タケ イスケ@cohen_kanrinin

@shinshoga ディランの場合、歌がバンドのグルーヴを牽引している感じがします。ストーンズにおけるキースみたいな。また『愚かな風』など、うたのフレージングがトランペットやサックスのようにも聞こえます。自由に出入りするところがジャズの感覚にも共通しているように思えます。

posted at 21:40:44