鰯の独白

鰯は、鮪よりも栄養価が高いのです、たぶん。

葬儀のときにかけてほしい音楽?

 

父が亡くなったので、ささやかながら葬式をあげました。 

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支払いはさっさと済ませたけど、こじんまりとした式でもけっこう費用がかかるもんです。打ち明けると集まった香典の倍近くかかった。もちろん香典返しを含まず、だ。

先日、こんな記事が(葬儀にお金をかけられなくなっている現状を誤魔化すなと批判的に)紹介されていた。

多くを語るつもりはないけど、自分が死んだときに葬式はナシでいい。祭壇はいらないし、坊主の読経もいらない。わざわざ親類縁者に集まってもらわなくてもいい。イワシは亡くなりましたよと連絡してもらうだけでいい。霊安室から火葬場に直行してもらって散骨してもらえればそれでじゅうぶん。仏壇も位牌も納骨堂も墓も不要だ。

 

よく、「自分の葬式のときにかけてほしい音楽」という話題を音楽愛好家は好むけれども、式をあげない以上、かけてほしい音楽もへったくれもないものである。だってさ、自分の好きだった音楽を葬儀場で流してもらうのって亡くなった本人の自己満足だし、参列者に「あゝイワシはこのような音楽を好んでいたのだなあ」と故人を偲ばせるってのもいかがなものかと思う。かりにぼくが《この際だ、生前どいつも聴こうとしなかったオリジナルをとっぷり聞かせてやれ》とばかりに自作の歌を延々と流しでもしたら、それこそ居たたまれなくなるじゃんか(そんな無粋なマネはしないよ)。

ちなみに父の葬儀では、喜多郎の『シルクロード』を流してもらった。オヤジが以前に聴きたいと所望していたのを思いだし、知人からいただいたCDをかけたんだ。したら式場の雰囲気とぴったりマッチしていたねえ。まるで会館そなえつけのBGMに聞こえたよ。

話を戻すと、むしろ好事家たちは「自分のいまわの際に流してほしい音楽」を言及したいのではないか。これをかけながら永久の眠りにつきたいという願望。ラモーンズのヴォーカル、ジョーイ・ラモーンは死ぬ間際にU2の“In a Little While”を聞いていたというが、そういう物語を胸中に思い描くんじゃないだろうか?うん、それなら理解できる。

ぼくも以前に「葬式にかけてほしい音楽」を挙げていたけど(過去記事参照)、これからは「死に際に聴きたい音楽」に変更しようと思う。 

この記事にはビートルズの「ビコーズ」とビル・エヴァンスの「スーサイド・イズ・ペインレス」を挙げていて、どちらも有力候補だ。また他の記事ではシンガーズ・アンリミテッドの「フール・オン・ザ・ヒル」を引き合いに出している。天国的なナンバーを聞きたい欲求は常日ごろからあるけれども、さて、いざ死ぬ間際になったら、存外にぎやかしい・騒々しい音楽が聴きたくなるやも知れぬ。いずれにせよぼくは「死に際に聴きたい音楽」のリストを、思いついたら当記事に随時追加していくつもりだから、もしもぼくが死んだときには、一晩くらいつきあってもらえればありがたいなと思っている。②③④

 

 ボノいわく、「飲んだくれの歌だったのがジョーイのおかげでゴスペルになっちまった」。


U2 (In A Little While) 

 

 『アビーロード』収録のクラヴィコード入りではない、ア・カペラヴァージョンで。

Beatles Because - YouTube

 

 映画『M*A*S*H』のテーマソング。アルバム『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』の収録曲はどれも残酷なくらい美しいんだけど、とりわけこの最終曲で文字通り天国に連れてかれる。


Bill Evans - MASH Theme (Suicide is Painless)_ 

 

 シンガーズ・アンリミテッドの『ア・カペラ』はプログレッシヴなアレンジだよね。ヒップホップのサンプリングに用いられるのも肯ける精度の高さ。過去記事で既に貼っているので、そちらをご参照ください。 

" FOOL ON THE HILL " SINGERS UNLIMITED

 

 

あゝそうだ、もう一つ追加しておこう。

 

 チャーリー・ヘイデンの“The Ballad of the Fallen”。カーラ・ブレイドン・チェリー等、「リベレーション・ミュージック・オーケストラ」の仲間たちが集った、傑作アルバムの7曲目。


Charlie Haden - Silence

 

葬送の間じゅう、この音楽があたまの中でエンドレス・リピートしていたんだ。 

 

 

So Long Dad (セイジのアルバム)

 

9月21日、父が亡くなった。享年86歳。

ぼくと父の関係は決して良好ではなかった。

父の説く常識にぼくは反発し、それは彼が生を終える直前まで続いた。

いずれその確執を省みてみたいと思う。が、今はまだ書けない。

 

葬儀には遺影が必要だからといわれて、ぼくは応接間の書棚を探した。

するとオヤジのやつ、自分が良さげに収まっている見栄えのする写真ばかりを、二冊のアルバムにまとめているではないか。

いわば「ベスト・オヴ・セイジ(父の名前)」とも呼べる写真集だ。

ぼくは思わずふきだしてしまったよ。

あゝこのナルシストめ、って。

ポーズを決めたがるところ、自分にかんする情報を体系化しつくそうとする習い性は、息子であるぼくにも確実に受け継げられている。

そして数々の写真からうかがえる強烈な自我の放出を、父親としての彼は封印していたのかと、ぼくは遅まきながら気づくのだった。

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たぶんこの写真、彼は一番気に入っていたのだろう。B5版に拡大していたくらいだから。

うん、めちゃくちゃカッコいいよ。

登山が好きだった独身時代の、あなたに会って話してみたかったなあ。

親と子としてではなく、対等の一人と一人として。

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アオサギⅡ

 

 

休日の朝早く、まだ惰眠を貪りたいときに、

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階下からぼくを呼ぶ声がする。

リョースケさん、リョースケさんと、ぼくの名前らしきを。

ぼくはリョースケじゃないんだけどなあ。

そういうとこが雑なんだよな。

 

もっともぼくも人のことは言えない。

言い損ないはしょっちゅうだもの。

取引先をアズマさんと呼んだことがあるんだ、

しかも二度も。

三度めに間違えそうになったときは、さすがに怒ったね、

ヒガシです!って声震わせて。

 

今になってようやく東さんの気持ちがわかる。

呼び間違えは不愉快なものだ。

だから頼むよぼくのこと、

リョースケさんと呼ばないでくれ。

それはぼくの名前ではない。

それはぼくではない。